女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  絵画と商人 7−8  

 シアたち一行を乗せた馬車が、アインリーフ伯の屋敷の前に到着すると、老年の執事が、やや怪訝そうな顔つきで、出迎えに出てきた。
 急な来客に訝しげな顔をしていた執事だが、シアが女王陛下からの紹介状を見せると、おおっ、と大袈裟にのけぞり、ハンカチで顔を拭きながら、「ただ今、主人に報せて参りますので、少々、お待ちを……!」と、大慌てですっ飛んで行った。
 ハンプティダンプティ似の、小太りな執事が、泡を食った様子で腰を揺らしながら去るのを見送り、シア、アレクシス、ディークの三人は、案内された来客用の部屋で待つ。
 由緒ある伯爵家の子息という、アレクシスの身分も、一役買ったのだろう。
 その扱いは、丁重なものだった。
 騎士の鎧兜や、鷲や鹿の剥製の飾られた、古めかしい、だが、風格を感じさせる部屋の内装を眺めながら、執事が戻ってくるのを待っていると、ほどなく部屋の扉がひらく。
 杖の音と共に、後ろに執事を引き連れ、室内に入ってきたのは、白髪の老人だった。
 年の功は、六十を過ぎているだろうか。
 身長は、シアよりも低く、男性としてはかなり小柄な部類に入るだろう。だが、がっしりとした肩幅、いまだに隆々と盛り上がった二の腕は、往時の名残りを感じさせ、奇妙な迫力があった。ぎろり、とこちらを睥睨するような眼には力があり、その猛禽にも似た鋭さと、身についた威厳に、彼女たちも自然と姿勢を正した。
 厳めしげな老人は、椅子から立ち上がったシア、アレクシス、ディークの三人を順番に見据えると、小さく頷き、唇をひらく。
 老人の喉から、ろうろうとした張りのある声音が響いた。
「ワシが、この屋敷の当主、オズワルドだが……何でも、女王陛下のご使者でいらっしゃる、と」
 その言葉から、この小柄な老人こそが、アインリーフ伯であると知れた。
 アインリーフ伯からかもしだされる威厳に、しばし圧倒されそうになっていたシアだが、そんな少女の背中を、接客用ともいうべき笑顔を浮かべたディークが、しっかりしろ、と軽くつねる。
 相変わらず、すがすがしい位、容赦がない。
 シアは痛っ、と一瞬、悲鳴を上げかけたものの、持ち前の根性でこらえ、取り繕ったように品の良い微笑を唇にのせると、しずしずと、淑やかな歩みで、威厳あふれる老人へと歩み寄った。
 膝を曲げ、スカートの裾を持ち上げ、貴人に対しての挨拶とする。
 レースで飾られた襟に、銀糸の髪が流れ、生来の美貌と相まって、そうしている様は、どこぞの令嬢と名乗っても支障がなかろう。……その脳裏に、ディー兄への愚痴が、ぐるぐる渦巻いているなど、当人以外の誰も気づくまい。
「はい。先触れもなく、突然の非礼をお許しくださいませ。こちらが……女王陛下直筆の書状でございます」
 そう言いながら、シアがうやうやしく書状を手渡すと、アインリーフ伯は大切そうに、それを押し抱く。
 すぐさま封を切ると、素早くその中身に目を通し、老人はうむ、と重々しくうなずくと、顎に手をあてた。
 手紙を一読したところで、アインリーフ伯は顔を上げた。
 鋼色の目が、再度、射抜くように、女王陛下の書状を持ってきた、銀髪の少女を見つめる。
「たしかに、王家の紋……エミーリア王女、いや陛下の筆致に、相違ない。さて、こんな年寄りの元に、何の用件かと思えば……」
 厳めしい雰囲気をまとった老人は、そこで一度、言葉を切ると、いささか緊張した面持ちで、彼の言葉を持つシアをまっすぐに見、重々しく言葉を重ねる。
「女王陛下は、当家の所有する、シャンゼノワールの絵をご所望……とのことで、よろしいですかな?ご使者殿」
 はい、とシアは迷いなく、首を縦に振った。
 元・宮廷画家、シャンゼノワールの描いた、アインリーフ伯夫人の肖像を、お譲り頂くことは、叶いますでしょうか、と。
 彼女の言葉に、アインリーフ伯はたった一言、「……シャンゼノワールの」と呟いたきり、眉を顰め、むすりと押し黙る。
 その老人の態度は、先祖伝来の絵画を求められた不快さととも、あるいは使者の礼節に対する無言の抗議とも、どちらとも受け取れ、その沈黙に耐えかねたように、シアは曖昧な表情を浮かべることしか出来ない。――女王陛下からは、アインリーフ伯が断るならば、決して無理じいしないよう、よくよく注意されている。アインリーフ伯の態度は、どちらとも判断しづらかった。
 無意味とも言うべき、膠着状態を見かねてか、ディークはあくまでも控えめに、されげなく、されど、明確な意思を持って、アインリーフ伯の前へと進み出る。
 十分な距離を取り、姿勢を正し、目上の、貴人に対する礼儀を備えてはいるものの、青年の振る舞いは洗練され、あくまでも堂々としたものだった。
 己よりもずっと身分の高い老人を前にしても、その濃緑の瞳に臆するような陰りは、一切、見えない。
 それでいて、不遜と思われないのは、不思議とさえ言えた。
 スッ、と音もなく、前に滑り出たディークは口を開くと、僭越ながら口を挟むご無礼、お許しください、と前置きし、
「いかがでしょう、無理な申し出とは存じますが……やはり、ご先祖様の大切な肖像画を、お譲り頂くのは、難しいでしょうか?」
と、アインリーフ伯に尋ねる。
 老人はシアからディークへと、その目線を移し、「……貴殿は?」と威厳ある声で問う。
 問いかけに、かの天才商人エドワードの再来、リーブル商会の隠し玉と謳われる青年は、にこりと笑って応じた。
「高貴な御方の、ご記憶の片隅に、留めて頂く価値もない若輩者ですが、ディーク=ルーツと申します」
 アインリーフ伯は、なるほどと首肯し、
「あの絵画を譲りたくない、というわけではないのですがな……ましてや、我らが女王陛下のお望みとあらば、臣下として、為すべきことは決まっている」
と、躊躇いの滲む声音で言い、いや、しかし、とゆるゆると頭を振る。
 威厳ある老人が見せた、ひどく悩ましげな態度に、複雑な胸中がかいま見えた。
 それは、絵を譲りたくないという執着ゆえのものとは、また別である気がして、ディークは不審そうに、目をすがめた。
 人目がなければ、首をかしげていただろう。
「お譲りしたいのは、やまやま……ましてや、女王陛下のご使者が、遠路はるばる足を運んで下さったとあらば、ワシとて望むところでありますが……」
 だが、しかし、あの絵は……と続けたアインリーフ伯の言葉は、対面する彼らに向けたものというより、半ば独り言めいていた。
 老人の言葉の裏にひそむ何かを察し、その真意を問おうと、ディークが口を開きかけた時、後ろの少女が声を上げる。
 女王陛下から任務を預かった者として、交渉が彼の手によって進められることを、拒んだのだろう。
 さらに一歩、前に進み出たシアは、青い瞳に真摯な光を宿し、「あの……」と必死な表情で、頼み込む。
「あの、もし、お譲り頂ける気持ちがありましたら、シャンゼノワールの絵を見せていただけないでしょうか?今すぐ、お決めいただかなくても、構いませんので」
 どうか……と頼み込んだシアの申し出に、アインリーフ伯は口元を引き結び、渋い顔で、
「本当に……よろしいのか?」
と、問い返した。
 シアが、ぱあぁ、と嬉しげに顔を輝かせ、「はいっ、お願いいたします」と大きく首を縦に振ると、老人は厳めしげな面に、微かな憂いをよぎらせ、小さくため息をついた。
 ――ご使者を、シャンゼノワールの絵のある部屋に、ご案内する。お前は、今宵の晩餐の支度を。
 そう主人から、言葉少なに命じられた執事は、小太りな体躯を飛び上がらんばかりに揺らし、驚いた風を息を呑んだ。
 支度を、と再度、促すようにアインリーフ伯に命じられ、執事はハッ、とかしこまると、「ただ今、料理長に伝えて参ります」と、扉を開け放ち、ちょこまかと二十日鼠のような足取りで駆けていく。
 何とか第一関門は突破したようだと、無邪気に喜ぶシア。
 どうなることかと心配だったが、どうやら上手くいったようだ、と穏やかな顔つきで、ほっと胸を撫で下ろす、アレクシス達とは対照的に……ディークは、走り去った執事の背中に、どこか怪訝な眼差しを向けていた。
 彼自身、何らかの確信があるわけでもなく、ただの勘に過ぎないのだが、青年の顔からは、油断がならない、とでも言いたげなものが感じられる。
 ひどく困難そうに見えた物事が、思いがけず順調に運ぶ時ほど、予期せぬ落とし穴が、待ち受けているものである――と、ディーク=ルーツは、経験上、知っていた。
 裏がある、とまで断言はせぬが、何かが妙だ。
 しかし、ディークはまた、率直なそれを表に出さぬ程度には、賢明な男でもあったので、アインリーフ伯がぐるりと首を回し、こちらを向いた瞬間には既に、疑いの眼差しは、影も形も消え失せていた。好青年風の、爽やかな微笑を浮かべたディークに、アインリーフ伯も不審の念を抱く様子もなく、「どうぞ、ついて来なさい」と言い、先に立って歩き出す。
 シア、アレクシス、ディークの三人は、屋敷の主人である老人の心遣いに、丁寧に感謝の言葉を述べて、その小さな背中を追いかけた。


 アインリーフ伯の案内によって、シアたち三人が連れて行かれた部屋は、広大な屋敷にしては比較的、こじんまりと纏まった部屋だった。
 野薔薇の壁紙、金色に輝く鏡台、手入れこそ行き届いてはいるものの、最近、使った痕跡の感じられない、古めかしい家具の数々。
 太陽に雲がかかり、いまだ燭台に火を灯す時刻でもないゆえか、紗のカーテンで閉ざされた室内は、薄暗く、どんよりと曇ったような陰りを帯びている。
 床の絨毯にこびりついた染みに、杖をついた老人は、顔をしかめながら、「ここは、代々の当主の妻の部屋だったのです。母と……十数年前に、妻が身罷って以来、誰も使っておりませんが」と、淡々と、どこか寂しげな声音で、言葉少なに語った。
 しかし、そんなアインリーフ伯の言葉が、若者たちの耳に届いたかといえば……いささか、微妙なところだった。
 扉を開け、部屋に一歩、足を踏み入れた瞬間、シアの視線はス――ッと、さながら吸い寄せられるように、部屋の一点へと釘付けになった。
 アレクシスもつられるように、そちらへと目を向け、どこか合わぬものを感じながら、“それ”から目を逸らすことは出来ず、喉の奥で唸る。
 ディークはといえば、ほぉ、と感嘆の声を上げ、その濃緑に喜色と、浅からぬ好奇心をにじませながら、まじまじとそれを凝視する。
 それは――美しい女の絵だった。
 なめらかな漆黒の髪、ヘーゼルナッツの瞳に、夢見るような微睡むような色合いをたたえ、絵の中の女は微笑んでいる。
 組んだ腕の前には、一輪の白い薔薇。
 襟ぐりの大きく空いた薄紫のドレスは、成熟した女の艶やかさを感じさせるのに、どこか夢うつつな表情は、童女めいたあどけなさをも感じさせる。
 誘うように、うすくひらいた紅い唇は、淫靡ささえ感じさせるのに、胸の前で組み合わせた手は、聖母の模倣のようだ。
 美しい、圧倒されるまでに美しい、だが、そのアンバランスさが、何とも言えず、不快なまでの違和感を感じさせるのも、また本音ではあった。
 (ああ……)
 堕ちたる天才画家、狂気の人と言われる、シャンゼノワールは確かに、天拭の才の持ち主だったと、シアは息を呑む。
 この絵を見ただけで、絵のモデルが抱えていた闇や、その不安定な精神までも、見事なまでに浮かび上がらせ、それを、見る者に伝えてくる。
 モデルの精神を暴くことに、一切の遠慮がない筆遣いは、いっそ残酷だ。
 かのアンネリーズ王女が、この恋に盲目で、だが、才気あふれる画家を疎んだのも、おそらく、その辺りも無関係ではないだろう。
 恐ろしくもあった、気持ち悪くもあった、けれども、認めるしかないのも、また事実である。
 説明される前から、本能で理解した。
 ――これは、シャンゼノワールの絵だ。
 アンネリーズの絵とはまた違う、だが、凄絶な、妖しいまでの美。
 そして、この絵の中で微笑む女はおそらく、かの画家の支援者のひとりであったという、アインリーフ伯の先祖であるのだろう。
 コホンッ、と意図せずして現実離れしていく空気を、呼び戻すように、アインリーフ伯はわざとらしく咳払いをし、もうお気づきでしょうが、と言った。
「この絵に描かれている女性こそ、我が先祖、およそ二百年前の当主夫人、エメルディアです……若き頃から、シャンゼノワールの才を高く評価しており、かの画家が宮廷を追放されてからも、密かに援助を続けていました。これは、その縁で描かれた肖像画です」
 エメルディア、と先祖の名を口にする老人の声は、どことなく苦さを孕んでいた。とはいえ、何も知らない若者たちに、その理由が察しが付くはずもなく、ただ吸い込まれるように、その肖像画に見入っている。
 最初に、絵からアインリーフ伯の方に向き直ったのは、ディークだった。
「詳しくは、専門の鑑定家に聞かねばわかりませんが、筆遣いや絵の構図から見て、おそらく、シャンゼノワールの晩年に描かれた絵でしょうね……夫人の胸の前に描かれた薔薇は、シャンゼノワールが好んだ花です。またアンネリーズ王女を、象徴する花だったとも」
 シャンゼノワールにとって、すべての女は、アンネリーズ王女の模造品に過ぎなかった、という批評家の言葉もあります。
 青年の声音は、涼やかだったが、抑えたような興奮も感じられた。
 ディークもまた、シャンゼノワールの絵を前にして、何らかの感慨を抱かずにはいられないのだろう。
 本能的に、肖像画に封じられた狂気めいたものを感じても、シアやディークのように、絵画に対する造詣が深いわけではないアレクシスは、そうなのか、と感心したように、二度三度、首を縦に振る。
 そんなディークの発言に、触発されたように、シアも顔を上げると、生来の負けず嫌いさゆえに、己の知識を口にする。
「ええ、それと……この肖像画もそうですけど、宮廷を追われてからの、シャンゼノワールの絵には、幾つかの目立った特徴があります。この己の頭文字と、アンネリーズ王女の頭文字をからめたサインも、そのひとつ……王女に捧ぐ、という意味が込められているとか」
 少女の白い指先が、画家のサインを示した。
 そうアインリーフ伯に喋りかける傍ら、シアは牽制するような目で、好敵手であるディークを睨む。
 彼と彼女の間に、静かな火花が散った。
 いっぱいいっぱいという、必死さを隠そうともしないシアに対し、ディークはといえば、余裕綽々での態で、そんなにカッカッするもんじゃないよ?と、たしめるような顔である。
 まさか、裏でそんな攻防が繰り広げられているなど、夢にも思わず、アインリーフ伯は、
「……お若いのに、よく勉強されていらっしゃる。さすがは、女王陛下がご信頼された方々だ」
と、満更、お世辞でもなさそうに、彼女たちを褒めた。
 対抗意識で言ったバツの悪さも手伝って、「いえ、聞きかじりですが……」と首を振るシアの横で、それまで黙していたアレクシスが、言った。
「先程、この肖像画には、何かあるような事を仰っておられましたが……?」
 意外な人物から飛んだ、意外な問いかけに、アインリーフ伯は目を瞬かせる。
 先ほどから、シャンゼノワールへの興味を隠そうともしない銀髪の少女や、控えめに、だが、淀みなく知識を披露するディークという青年と比べて、この黒髪の青年は、ひどく寡黙な印象を抱かせた。
 無愛想というわけでもなく、穏やかな空気をまとってはいるのだが……他の二人がよく喋る為、そう思うのかもしれない。
 いままで黙っていた青年が、核心というべき問いを投げてきたことに、少々、意表をつかれつつも、さよう、とアインリーフ伯は首肯した。
「この肖像画には、少々、曰くじみたものがありましてな……晩餐の席ででも、お話しいたしましょう」
 そう言う老人の目は、何かを案ずるように、絵の中で微笑む女へと向けられていた。

 
 十数年前、夫人が故人となって以来、華やかな催しらしい催しとは縁がないということで……久々の若い客人に張り切った料理長が、思う存分に腕を奮い、その日の晩餐は派手ではないが、称賛に値する繊細な料理の味付けと、ちょこまかとよく働く執事の心配りで、和やかなものになった。
 食前酒、オニオンスープ、舌平目のムニエル、葡萄のソルベ、仔羊のロースト、季節野菜のサラダ、デザートetc.……。
 鏡のように、よく磨き上げられた銀食器。
 眩しいばかりの、純白のテーブルクロス。
 豪奢なシャンデリアが、明るく煌めく……。
 招かれているのは、自分たちだけとはいえ、心尽くしの晩餐の場とあれば、男性陣はともかく、シアは普段通りとはいかず、念の為にと持ってきた、淡いピンクのドレスに着替えていた。
 奇をてらわないデザインのそれは、少女の華奢な体つきや、儚げな美貌によく映える。
 メイドたちの手を借りず、何とか白銀の長い髪を結い上げ、小粒の真珠の髪飾りと、揃いの耳飾りを身に着つけていた。
 ほんのり薄化粧を施した彼女に、隣のアレクシスがしばし見惚れていた、というのは、彼のみが知る事実だ。
 また、ディークの方も、着替えも何もせず、さっさと席についたアレクシスとは異なり、何時の間にやら上着やらタイやらを変え、晩餐の場に相応しい、洒落た装いへと変貌を遂げていた。
 男がそこまでせずとも、と不思議そうな顔をする騎士に、亜麻色の髪の青年は、これぐらいは嗜みだよ、とおどけるように、片目をつぶってみせる。
 まったく……何をやらせても、腹立たしいほどに、スキのない男である。
 そんな水面下でのアレやコレやはさておいて、ささやかな晩餐会は表向き、なごやかに進んだ。
 カチャカチャ、と控え目なナイフとフォークの音と混じって、明るい談笑の声が響く。
「ほお……それでは、貴方は、あのカーティス殿のご子息か……通りで、よく似ておいでだ。お父上の凛とした佇まいを、よく受け継いでいらっしゃる」
 アレクシスの話を聞いたアインリーフ伯が、そう懐かしそうに、相好を崩す……かと思えば、ディークが巧みな話術で、場の空気を盛り上げる。
 シアが負けじと、それに対抗するような失敗談、笑い話を語れば、生まれてこの方、頑固一筋といった風な老人の唇から、くっくっくっ、と抑えた笑いがもれる。
 いまだかつて、一度も見たこともない主人の姿に、あんぐりと口を開け、唖然とする執事。
 意外そうに目を丸くするアレクシスに、アインリーフ伯はコホンコホンッ、とわざとらしい咳払いを繰り返し、なんとか威厳を取り繕った。
 ――美味しい料理に、尽きることのない和やかな会話、極上のスパイスが揃い、晩餐会の時間はつつがなく流れていく。
 細っこい体つきには意外な程、旺盛な食欲で、肉も魚料理もぺろりと綺麗に平らげたシアが、デザートのアップルパイと青林檎のソースに、ニコニコと舌鼓を打っていた時だった。
 ワインのグラスを傾けたアインリーフ伯が、口を開いたことで、その場の空気は一変する。
「そろそろ、あのシャンゼノワールの絵について、お話しせねばならぬのでしょうな。二百年も前の、我が先祖のことなど、お若い方々には退屈でしょうが……」
 アインリーフ伯が、問題の絵について、口を開いたことで、シアは心持ち身を乗り出し、アレクシスはいよいよかと身構え、ディークはゆったりとワイングラスを弄んでいた。
 琥珀色のワイングラスを、迷うように、ゆらゆらと波立たせながら、老人は神妙な顔つきで語り出す。
 生き物のように波打つ黒髪、夢うつつを彷徨うような、ヘーゼルナッツの双眸。
 シャンゼノワールの絵のモデルとなった、彼の人の、悲劇ともいうべき生涯を――。
「絵画のモデルとなった、あの夫人が生きていたのは……百合戦争の頃、いまだ隣国との戦火の炎が絶えなかった時代のことです。夫人の夫は、当時のアインリーフ伯は、指揮官として出征し、若くして戦死したそうです」
 当時の貴族の常として、恋愛感情はなかったそうだが、頼るべき夫の死に、未亡人となった女は途方に暮れて、乳飲み子を抱え、日々、泣き暮らしていたそうだ。
 美貌で知られた夫人だけに、夫亡き後、求婚者は大勢いたと言うが、頑なに喪に服し続ける女に、皆、愛想をつかし、いつしか訪ねる者もいなくなってしまった。
 夫人はますます孤独になり、さびしい、さびしい、と嘆きながら、内にこもるようになっていた。
 そんな夫人の寂しさ、孤独な心の隙間に押し入るように、ある一人の騎士が現れたのだ、とアインリーフ伯は続けた。
「容姿端麗、武骨だった亡き夫と違い、宮廷の洗練された作法を身に着けていた、年若い騎士に、夫人は惹かれ、やがて恋に落ちたのです。決闘騒ぎで故郷を追われたという、その若い騎士が、十以上も歳の離れた未亡人を、本心で、どう思っていたのか……今となっては、察するしかありませんが、まあ、余り本気ではなかったのでしょうな」
 その証拠に、その騎士は恋仲だった夫人を裏切って、若い侍女と共に駆け落ちしてしまったのだ。
 もののついでとばかり、夫人の大切にしていた宝飾品の数々を、ごっそりと盗み出して。
 夫を失い、恋仲だった騎士に裏切られた夫人の嘆きは、深かったという。
 盗み出された品々とて、惜しくなかったわけではなかろうが、それよりも夫人を打ちのめしたのは、愛する人に裏切られ、捨てられたという悲しみだった。彼女は、残酷な現実を受け入れられず、昼間はヒステリックに泣き叫び、夜な夜な恋しい騎士の姿を探し求めては、領内を彷徨い歩くようになったという。
 騎士様、愛しい騎士様、どこにいらっしゃるのです……。
 わたくし、待っていてよ。
 ず――っと、ず――っと、待っていてよ……。
「先祖の恥を晒すようで、気が引けますがな……夜な夜な、彷徨い歩く夫人を、領民たちは見て見ぬふりをし、晩年は、長じた息子によって、修道院に死ぬまで幽閉されたとか……その直系の子孫が、ワシなのですが、余り愉快な話ではありませんな」
 そう昔語りを締めくくり、その夫人の子孫である老人は、ワインをあおった。
 古い逸話にありがちな、血生臭いものとはまた違うが、正気を失い、恋しい人を求めて、夜な夜な彷徨い歩いたという夫人の心情を想像すると、なんだかゾッとするような、ひやりとしたもので全身を撫でられたような気がして、シアは言葉をなくす。
 同じ騎士として、恋仲だったはずの夫人を裏切ったのが、許せなかったのだろう。
 アレクシスが、不実な……と、不快気に眉を寄せた。
 愛する者を裏切り、ましてや、盗みを働くなど、男として言語道断の行為で、憤りを覚えずにはいられない。二百年も昔の、伝説ともいうべきものとあっても、だ。
 良くも悪くも、暗い情念とは、さっぱり縁遠そうなアレクシスの言動に、ふっ、と呆れめいた吐息を吐きだし、ディークは唇を歪めた。
「その夫人を描いたのが、“あの”シャンゼノワールというわけですか……なんだか、因縁めいたものを感じずにはいられませんね」
 シャンゼノワールの異名は、魂描く画家、です。とすれば、あの肖像には、夜な夜な、愛した人を求めて彷徨う、夫人の魂が宿っていても、不思議ではありませんね。
 そう冗談めかして言ったディークを、シアは馬鹿なことを言わないで、ときつく睨んだが、アインリーフ伯は笑わなかった。
 さよう、と重々しく頷いた鋼色の瞳には、底知れない暗さが感じられる。
「――あの夫人の肖像画には……亡霊が棲むのです」
 そう言ったアインリーフ伯の表情は、到底、嘘や冗談を口にしているもののそれではなかった。
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