女王の商人

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  海賊と商人 8−2  

 シアがディークのことを知ったのは、幾つの時だったか、ちゃんとは思い出せない。
 親戚だけあって、彼は赤子だったシアも知っていたらしいが、幼すぎて、彼女の記憶は薄いのだ。
 多分、なんとか覚えているのは、三つか、四つの時のことだったと思う。
 父親と一緒にやってきた少年は、ちっちゃなシアに合わせて背をかがめると、濃緑の目をやわく細めて、笑った。
「やあ、久しぶり……といっても、君は忘れちゃってるだろうね」
「だぁれ?」
 おっかなびっくり、クラフトの背に隠れかけたシアに、十を数えるかどうかの少年は、年に似合わぬ、大人びた苦笑を刻んだ。少年の手が、幼い子供の水色のドレスに伸びる。
 大丈夫、怖くないよ、と父に背中を押され、ひょい、と少年の腕の中に抱えあげられて、抱っこされたシアは目を白黒させた。零れ落ちそうな青い瞳が、きょろきょろ、と周囲の大人たちを見るが、皆、微笑ましげな表情をしているのみだ。
 父も母も祖父も、助けようという素振りを見せないのを見て、幼い少女はモゾモゾと、落ち着かなげに身動きをした。小さい手足をばたばたさせると、きゅ、と慎重に抱え込まれる。
 おでこを突き合わせる距離で、目が合って、シアは驚き、まじまじと少年の顔を見た。
 じい、と見つめられた少年は、いささか気恥ずかしそうに、けれども、優しげに口元をほころばせる。
「噂には聞いていたけど、本当に、エステルさんにそっくりだね……小さなお姫様みたいだ」
「おひめさま?」
「とっても可愛い、って意味」
 今にして思えば、ディークはその頃から、タラシの片鱗があった。
 しかし、そんなことは幼い子供に関係があるわけもなく、急に高くなった目線をいかして、シアは少年の顔に手を伸ばす。自分と母をそっくりだと、彼は言ったが、少年の亜麻色の髪や、面立ちは、父とよく似通っていた。故に、何となく初めて会った気がせず、気安く手を伸ばしてしまう。ふに、と小さな手が、少年の頬をつまんだ。ふにふに。
 幼いシアの戯れに、濃緑の瞳の少年は、笑っていたものの、ふにふにふに、と調子に乗ると、何だか、笑顔が怖くなった。
「そのぐらいで止めておいてくれないかな。ね?」
「ふぇ……」
 思わず、ビクッとなり、手を離したシアに、少年は「良い子だね」と、穏やかな声で言う。あまり穏やかに聞こえないのは、きっと気のせいだ。
「僕は、ディークだよ。シア」
「ディー、ディーク?」
「うん。そう」
 舌ったらずな声で、彼女が名を呼ぶと、少年――ディークは嬉しそうに、うなずく。忘れないでよ、と頬を寄せられ、くすぐったがったシアは、ディークの腕から逃れようと、身をよじる。少年は「お返しだよ」と悪戯っぽく笑って、抱え上げた幼い少女を、そっと母親の腕へと運んだ。
 甘く、やわらかな陽だまり匂いのする母親の腕に、シアはホッと胸を撫で下ろし、再び、クラフトやエドワードと言葉を交わす、少年を見やった。
「商人になりたいだってぇ?悪いことは言わねぇ、止めとけよ。坊主。俺の息子みたいになるのが、関の山だ」
 カカッ、と高らかに笑うエドワードの靴の先を、息子のクラフトがさりげなく踏みつける。ぐえ、と悲鳴が上がった。
「ひどい言い様ですね。父さん……ディーク、商人を志すにしても、こういう大人になるもんじゃないさ」
「イタタッ……おめえ、大人げねぇぞ。クラフト、その性格、誰に似たんだ?」
「その言葉、そっくり、そのまま返しますよ」
 リーブル商会の創業者と、その後継者という、数多の商人たちから尊敬の目を向けられる身でありながら、さながら子供のような言い合いをする父子を、少年のディークは馬鹿にするでもなく、くつくつ、と楽しそうに喉を鳴らす。あなたったら、お義父様も……ディークが困ってしまいますわ。
 母親が、おっとりとした口調で言うのを、シアはその腕の中で聞いていた。
「おお、悪ぃ、悪い。まあ、目標があるのは、良いこった……どうせなるなら、器のデカい商人になれよ。ディーク。他の大陸の奴らとも、対等に渡り合える位にな」
 エドワードの大きな手が、くしゃくしゃと少年の頭を撫でる。
 祖父がそうするのを、ディークがうれしそうに、本当に嬉しそうに、頬を紅潮させるのを、シアは間近で見ていたのだ。少年が夢を抱くのも、自らの居場所を定めるのも、それに向かって歩みだすのも、ずっとずっと。
 あの時は、祖父さんがいて、父さんがいて、母さまもいた。
 母さまが儚くなってしまってから、ディー兄はめちゃくちゃ厳しくなり、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、とばかりに散々な目に合わされたけれども、それでも、半ば家族のようなものだったし、大事な仲間だった。
 なのに、どうして、彼は――


 リーブル商会にて、シアは大きめの長椅子に腰をおろし、東方との貿易の資料に目を通していた。
 窓際、銀の睫毛にふる陽光に、眩しげに顔をしかめる。
 顔を上げた。
 ふとした瞬間、部屋の中央にいる、亜麻色の髪の青年の姿が、視界の端をよぎり、彼女は慌てて、目を逸らす。
 悪いことをしているわけでもないのに、むしろ、こちらが後ろめたく思うことは、何ひとつとしてないはずなのに……そう思いながらも、少女は亀のように身体を丸め、柱の影に身を隠す。
 何となく、何となくではあるが、ひどく気まずい。
 (頼むから、こっち見ないでよ。ディー兄……っ!)
 なるだけ、今は目を合わせたくない。
 シアの視線に気づいてか、気付かざるか、ディークは表情を変えるでもなく、旧知の商人と仕事の打ち合わせをしていた。
 普段の飄々とした態度が嘘のように、その表情は真剣そのものだ。
 親子ほども歳の離れた商人と、経験の差を感じさせることなく、対等に向き合い、淀みなく議論を進める様は、見事の一言である。押すべきところは押し、退くべきところは退く、必要とあらば譲歩をし、その実、肝心なところは譲らず、己の優位を確立させる。それでいて、間の計り方が抜群に上手い為、相手に反発心を抱かせない。
 本人曰く、先代や長の手法を真似ているだけさ、と言うが、されど、それは一朝一夕で身につく物では絶対にない。交渉術、その一点に置いて、ディークは年嵩の商人たちや、リーブル商会の重鎮たちさえも、一目置かざるを得ない位置にいる。即ち、それは、跡取り娘たるシアが歩むべき道の、半歩、否、数歩、先を歩んでいるということであった。
 ――悔しいが、それは事実だ。
 目を合わせないようにしよう、そう思えば思うほど、視線はそちらを向いてしまう。
 シアの青い瞳に映る、ディークが小さく笑みをこぼす。
 黒いリボンでゆわいだ、亜麻色の髪が揺れる。
 低く、くぐもったような笑い声。
 いつの頃からだろうか、見知らぬ男の人の顔で、ディー兄が笑うようになったのは。……もう思い出せない。
 そう、男の人、なのだ。どこか息苦しくなるようなものを感じて、シアはそっと胸を押さえた。
 何で、あんなことを言ったのよ、と八つ当たりじみた罵り言葉すら、舌先に絡まったまま出てこない。
「――僕が名乗りを上げても、支障がないってことだよね?」
 恋人がいないという少女の銀糸の髪を、すくいあげ、甘い声で囁いたディークのそれが、耳の奥で木霊する。君が欲しいんだよ、と。
 今まで、そんな態度を露ほども見せなかったくせに、唐突に、そんなことを言い出した青年の真意は、不明だ。
 単なる気まぐれか、あるいは魔王のタチの悪い冗談、とタカをくくっていたシアも、いつまでたってもディークが撤回する素振りを見せないのを見て、嫌でも、意識せざるを得なくなった。
 いきなり、態度を変えるなんて、周りにも不審に思われるだろうと、わかってはいても、妙に意識してしまう。
 あんなのが、本気であるはずもないのに――と。
 (そうよ、忘れよう。あの性悪魔王、ディー兄のことだもの。あたしが動揺するのを見て、裏でケタケタ笑っているに違いないわ……あーーっ、想像したら、むかっ腹が立ってきた!)
 パラパラッ、資料の頁をめくる手つきが、心なしか乱暴になる。
 冷静に考えてみれば、普段から、シアをお子様扱いしてばかりいるディー兄が、本気であんなことを言い出すはずがないではないか。
 昔、二、三人ほど、ディー兄と懇意にしているらしい女性を見たことがあるが、どの人も、いまだ子供っぽさの抜けないシアとは、まったく異なる、香水や唇にさした紅が映える、大人の女性ばかりだった。加えて言うなら、スタイルも抜群で、その……言いにくいが、胸もかなりあった。成長途上と言えば聞こえはいいが、平たい自分は対象外なはずだ、と少女は妙な自信を深める。
 ……とにかく、ディークが何かを企んでいるにしても、それに乗ってあげる義理はないと、思う。
 いずれ、お遊びに飽きれば、あれは撤回されるが、自然になかったことになるだろうと。
 決めつけるのは卑怯だと、シアの心の冷静な部分が囁くが、今の彼女には、それに耳を傾ける余裕はなかった。
 魔王の気まぐれ、そう思っていれば、表面上は平静でいられるのだから。――ディー兄、と呼んでいるうちは、きっと、このままの関係でいられる。
「――――っ」
 いつからだろう。ディークが此方を見ていた。
 その濃緑の瞳の奥、ちらちらと揺らめく焔にも似たそれに、シアは息を呑んだ。
 彼女の心のブレを見抜いたように、亜麻色の髪の青年はふ、と口元をゆるめると、音もなく唇だけを動かす。――誰を、見ているの?
 何もかも見透かすようなそれは、ひどく意地が悪い。
 こみあげてくる羞恥心に、少女は膝に爪を立て、きつく唇を噛んだ。
 有り体に言えば、シアは、怖くなったのだ。
 知らない男の顔で笑う、ディークが。
 認めたくはないにしろ、庇護者のように思っていた男の豹変が。
 突きつけられた変化が、容赦なく胸を抉る。
 アレクシスに抱く想いとは、まったく違う。あれはもっと……淡くて、優しくて、時に狂おしくなる程、切ないものだ。花に水を遣るように、手のひらに光を集めるように、ゆっくりと、大切に、大切に、育んできたもの。愛おしいものだ。
 視線がかち合ったのは、ほんの一瞬の事だった。けれども、シアの心に敵愾心にも似たものがよぎるのは、それで十分だった。
 目を閉じ、刹那、胸によぎったそれを追い払うと、彼女は再び、資料へと目線を落とし、周囲の雑音を遮断するように、集中する。
 すぐそばで、ディークとアルト達が会話している事すらも、そうしたシアには意識の外だった。

 何かと落ち着かないシアとは対照的に、ディークは相変わらず、飄々と過ごし、商会の皆から頼りにされているようだった。
 語学に堪能であり、知識も豊富な彼は、様々な場所で重用されているようで、長であるクラフトや先代とも近しい。であればこそ、シアは余計に、ディー兄の行動の意図が読めなかった。何の為に、あんなことを言い出したのか……。
 夕餉も近くなった頃、今日の仕事を終えた少女が家に戻ろうとすると、ディークがのんびりとした歩みで、追いかけてきた。
 もっと速く歩けるだろうに、ワザと歩調を合わせてくることに、シアは何とも居心地の悪さを覚える。
 キッ、と眉を寄せても、後ろからは、笑みをふくんだ気配しかしない。
 シアは歩くというより走るという速度で、家に戻ると、階段の手すりに触れた。ポンッ、と後ろから、肩を叩かれる。そのまま、引き寄せられそうになり、少女は銀の髪を乱しながら、剣呑な眼差しで、肩を抱いた青年を睨むと、ピシャッ、とその手を跳ね除ける。
「……冗談が過ぎるんじゃないの。ディー兄」
 乾いた音を立てて、手を振りはらわれようとも、ディークは驚いたような顔は見せなかった。予想していた風ですらある。 
 ただ、シアの表情が、いつもより数段険しく、その青い瞳がいっそ冷ややかなものをたたえていることに、少しばかり意外そうに目を見開いた。
 上の段から、ディークを見下ろし、少女は冷然と「あたし、そんなに馬鹿じゃないの」と吐き捨てた。
「――ディー兄が一番、大事に思っているのは、リーブル商会でしょ。祖父さんならともかく、あたしじゃ意味がない」
 何が目的なの……?
 心底、呆れたように言うと、シアは黙り込むディークに背を向け、階段を駆け上がっていった。
 ダンダンダンっと、荒々しい足取りで、階段を踏み鳴らし、己の部屋に向かっていくシアの背を、ディークは濃緑の目をすがめ、無言で見送る。
 ついで、小さく首を横に振り、ッ、と舌打ちにも似た吐息がもれた。
「あらら、貴方らしくもないこと……口説くのは、失敗ですの?」
 気の毒な。甘い言葉を囁くのは、お得意でしょうに、と続けた声音は、同情するフリをしながら、どこか愉快がっている風でもある。
 亜麻色の髪の青年は、突然のそれに驚くでもなく、一拍おいて、ゆっくりと振り向く。
 リタ、とその唇から、メイドの女の名が紡がれた。
 今日の仕事を終えたらしく、くつろいだ私服に着替えたリタは、にこり、と陰のない笑顔を見せる。が、屈託のないそれこそが、かえって彼女の食えなさを浮き彫りにしていた。
 東洋の血を引く、その黒髪の女には、神秘的な微笑がよく似合う。
 その微笑を見て、リタを互角の相手とみなしているディークも、また隙のない笑みを唇にのせた。
 遊戯にはルールが存在するように、淑女には淑女の、紳士たるには紳士のマナーが存在するのだ。
 楽しい遊戯の場で、牙を仕舞う程度の知恵はある。
「どうも。一体、いつから、立ち聞きなんて、野暮な真似を覚えたのかな……?君みたいな良い女には、似合わないよ。リタ」
 まぁ……、と殊更、大仰にリタは眉をひそめる。
 大袈裟な態度は、半ば演技のようなものだった。
 その証拠に、メイドの表情からは、さほどの憤慨は感じられない。互いに心得、軽口を叩き合うそれは、一種の言葉遊びのようなものである。
「貴方の方こそ、しばらく会わないうちに、随分とお変わりに……花開く前の蕾には、手を出さない程度の分別は、ある方だと思っておりましたけど……私の見込み違いでしたかしら?ディーク」
 あえて敬称をつけずに呼んでも、ディークは軽く口角を上げたのみで、リタの言に不快がる素振りもなかった。
 猫のようなアーモンド型の瞳を細め、クスクスッ、と軽やかに喉を鳴らし、黒髪の女は、
「それとも、誰も触れていない、咲き初めの花を愛でたいと……?貴方も、歳を取った証拠ですわね。私も、ですけど」
と、したり顔で男を仰ぎ見る。
 ああ、嫌だ。お互い、年は取りたくないものですわね。――ふぅ、と耳元でかかる息すらも、いつかした遊戯の一部のようだった。
「さぁね、君のご想像にお任せするよ。リタ」
 穏やかな顔つきで、鋭い獣の本性を隠し、人畜無害な風を装うその男に、黒髪のメイドは「……可愛げのない男って、これだから、嫌ですこと」と、冗談めかして毒づく。とはいえ、本気ではないのか、次にリタが口にした台詞は、忠告の響きを帯びていた。
「あまり苛めすぎると、そのうち、手痛く引っかかれますわよ。ほどほどに、なさいませ」
 誰に、とは、あえて音にするまでもない。
 白銀の綺麗な毛並みを持つ猫は、繊細な美貌に反して、危機に立ち向かう根性と、大切なものを傷つけらるることがあらば、牙をむくだけの勇気を備えている。お嬢さまの勝気さは、折り紙つきだ。
 軽口の中にも、どこか真摯なものを織り交ぜたそれに、ディークは纏う空気を緩め、「さてね……」と首をかしげてみせる。
 タイがゆるみ、一瞬、青年の双眸に、少年めいたあどけなさが宿る。血縁であっても、クラフトやエドワードとは違う、尖りつつも、繊細な、青年と少年の境を思わせるような。
 しかし、それは本当に一瞬で、つぅ、と口角を上げた青年の眼差しは、獣じみた鋭いものだった。
 ぞわり、と肌が粟立つ。
「――これは、僕なりの賭けだから、自慢じゃないけど……今まで、勝負で負けたことはないんだよ」
 牙をさらし、不敵に笑う男に、リタはただ静かに、肩をすくめるのみだった。
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