女王の商人 

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  海賊と商人 8−11  

 ――空の色が、変わろうしていた。
 どこまでも透けるような青から、太陽の輝きを映した、眩しいほどの橙へと。
 白い羽を広げた海鳥たちは、大きく羽ばたいて連なり、揃って、あたたかい巣穴へと戻ろうとしている。
 昼間は、船乗りや大勢の人々で賑わい、積み荷おろしの際には、いっそ騒がしいほどだったエメスディアの都も、太陽が沈み、夕暮れを迎えようという時刻にあって、穏やかな静けさに包まれていた。
 傾く太陽に合わせたように、港の酒場には、ぽつりぽつりと灯りがともされていく。
 明日をも知れぬ海の男たちにとって、そんな陸地のあかりは、何にもまさる安らぎであり、希望の灯火でもあるのだろう。
 太陽が地平線の彼方に沈み、残照のひかりが海面を、帆船の白い帆を、目映くきらめかせる。
 彼方まで広がる海も、港に停泊する船も、積まれた酒樽も目に映るものすべてが、夕焼けの色に染まり、ひかり輝く。
 海が空が陸地が、夕焼けの色にとけて、ひとつになる。
 日夜、繰り返されるはずのそれが、ハッと息を呑むほど、美しい。
 酒場の歌い手が、興が乗ったのだろう。
 古い東方の楽器を手に取り、旋律を奏で始めた。
 異国情緒あふるるそれが、酒場の扉からもれ聞こえてくる。
 まそおの夕焼けに染まった空に、シアは頬を薔薇色に染め、うっとりと魅入られたようだった。
 海の色の瞳は、残照のひかりを受け、ゆるく伏せられた睫毛が、光の粒をのせている。
 しばし、海へと向けられていた少女の視線は、やがて眼前の男へと向けられた。
 彼女が立っているのは、夕焼けに照らされた桟橋。
 大陸から、大陸を渡り歩き、七つの海を越える。今にも、旅立とうとする嵐のような男を、見送りに来たのだ。
 シアの眼差しを受け、その男、ディーク=ルーツは、枯葉色の帽子を目深にかぶると、唇だけ笑みの形をかたどってみせた。
 また長い船旅になるというが、旅慣れた商人らしく、年期の入った革のトランクの他は身軽なものだった。
 潮の香りのする風が、亜麻色の髪と、濃緑のタイをなびかせる。
 ふ、とやわらかく笑うディークを前にして、シアは唇を開きかけて、思わず、口ごもってしまった。
 唐突にリーブル商会に戻ってきたと思ったら、嵐のように場を引っ掻き回し、そうかと思えば、また、今度は商品の仕入れの南の小国へと赴くのだという。長い旅路になるのだろう。
 一年か二年か、もっとかもしれない。
 言葉が通じないかもしれない、乗っている船が嵐に見舞われることだってあるだろう。されども、ディークに気負う素振りはみられず、まるで、普段通りだ。
 渡り鳥と称されるディー兄の出立を、父のクラフトや祖父のエドワードは、当然のことと受け止めているようだったが、シアだけが胸にモヤを抱えたまま、気持ちの整理がつけられずにいた。
 心にぽっかりと穴があいたような、そんな寂しさ。
 いや、思えば、シアが物心ついた頃から、ディークはいつもそうだった。
 ふと気がつけば傍にいて、問題や厄介事を解決し、それでいて、何でもない顔をして風のように去っていくのだ。
 離れていても、いつも気にかけてくれていた。
 ……それが、ひとつの優しさの形であるのだと、なぜ気付けなかったのだろう。
 しばらく、会えなくなるね。感傷に浸るでもなく、ごく自然に告げたディークに、シアは口をつぐんだ。
 いろいろ言うべきことはあるはずなのに、いざとなると感情があふれ出してきて、結局、何一つ上手く言葉にならない。
 そんなシアの心情を汲んでか、ディークは目を細めて、見た目は儚げな、銀髪の少女の守り手のように、その後ろに静かに佇んでいた騎士に呼び掛けた。
「ねぇ、そこの騎士殿」
 身内の語らいを邪魔せんとしてか、控えめに気配を消していたアレクシスは、ゆるりと面を上げ、「はい、ディーク殿」と低く、よく通る声で応じる。
 青年の、ディークを正面から見つめる、その漆黒の瞳には、俺に何か?と書いてあった。
 ディークは、小さく唇を尖らせると、冗談めいた口調で、
「崖から落ちかけた時には、君に助けられたよ。いわゆる命の恩人ってわけかな」
と、話をふった。
 おどけたような喋り方をしていても、それを流すがままにしておく気はないらしく、ディークの瞳は真剣だった。
 アレクシスは遠慮がちに、浅く息を吐くと、大したことはしていません、と首を横にふる。
 謙遜ではなく、本心だ。
 しかし、ディークはそれを華麗に無視すると、笑顔で言葉を重ねた。
「僕は、貸しをつくるのはいいけども、借りを作るのは、嫌いなんだ。何かして欲しいことがあったら、遠慮なく言いたまえ」
 言葉はともかく、さらりとしたディークの言い様は、嫌味を感じさせなかったが、助けた騎士の方も、それを貸しとはまったく思っていなかったので、気にする必要はないと、アレクシスは首を横に振った。
 そもそも、例の亡霊つきの絵画の時、危機に陥ったアレクシスを助けてくれたのはディークであり、それは、お互い様なはずだ。
 第一、共に行動する仲間に、借りも貸しもあったものではない。
 しかし、ディークは納得しかねるようで、眉をひそめた。
 高潔な騎士さまはそれで良くとも、商人たる己は、無償の好意に甘んじることに抵抗がある。
 タダより高いものはない、とはよく知られた言葉だ。
「無欲ほどたちの悪いものはないよ。何か、ひとつ位、あるんじゃないかい?」
 苦笑めかしたディークの言に、アレクシスは顎に手をやり、しばし考え込むような素振りを見せた後、では、と覚悟を決めたように切り出した。
 傍に歩み寄り、耳打ちされたそれに、「あの人のことを……?」とディークは怪訝そうな表情になる。
 事の成り行きを見守っていたシアは、聞き耳したわけでなくとも、きょとんと目を瞬かせる。
 ディークが顔をしかめるのも、道理と思ったのだろう。
 アレクシスは背筋を伸ばし、面を上げ、凛とした声で約束した。
 ディーク殿、
「断じて、やましいことはありません。騎士の名誉にかけて誓います」
 商人の青年は、事の真偽を見極めようとするように、目をすがめた。
 己の誇りをかけた商談の場に立つ時と同じ、ひどく真剣で、張りつめた空気がただよう。
 アレクシスも、じっと、微動だにせず、凛々しい顔つきで前を見据えている。
 一瞬にも、永劫にも感じられる間のあと、ディークはうなずいた。
「……わかった。その言葉、信じるよ」
 了承したディークに「お願いします」とアレクシスは頭を下げた。
「南方に行く前に一度、ディルストンに立ち寄るから、そこで手紙を出すよ。それで、構わないかい?騎士殿」
「ええ、勿論です。ご面倒をおかけして、すみません。ディーク殿」
「構わないよ。こちらから、言い出したことだしね。じゃあ……」
 請け負ったディークは、シアとアレクシスに向かって、ひらりと手を振ると、騒がしく戻ってきた際とは対照的に、静かに去っていこうとする。
「お気をつけて。貴方に、旅の女神の加護があらんことを」
 アレクシスはその背に、古式ゆかしく旅人を見送る常套句を投げかける。
 シアはドレスの裾を掴んで、唇を結び、ふくれっつらの子供のような、何とも言い様のない表情をしていた。
 桟橋を半ば行ったところで、ディークが振り返った。にやりと悪戯っぽく笑い、シアを揶揄する。
「おや……別れの挨拶もなし?」
 むっ、と心外そうに眉をつり上げた少女に、ディークはぷぷと愉快そうに噴出し、ついで、くくくくっ、と遠慮もなく笑い出した。
「せっかく、人が感傷に浸ってるのに、失礼ね!ディー兄、この魔王」
「わははははっ、君に感傷なんて似合わないよ。シア、その方がらしいって!」
 とうとう腹を抱えて、派手に笑いだす、ディーク。
 橙色の夕日に包まれて、破顔一笑、少年のような無邪気な笑みだった。
 やれやれ、またか、別れがたさから、きゃんきゃんと吠えるシアと楽しげにあしらうディークを見比べて、アレクシスもまた微笑をはいた。 ――確かに、静かに別れるよりも、この方が、ふたりらしい、のかもしれない。
 シアはぶんぶんと頭を振り、
「あ―――もうっ、ちゃんと見送ろうと思ったのに、ディー兄のせいで調子が狂っちゃたわよ。いっつも、そうなんだから……人のことをからかうわ、おもちゃにするわ、油断の隙もないわ」
と、叫ぶ。
 ワサービの恨み、その他を思い出してか、ぐぐと拳に力を込めたあと、でも、と彼女は言葉を重ねた。
 でもね、
「ディー兄が、あたしのこと、ずっと見守ってくれたことには、感謝してる。ありがとう」
 ちょっぴり素直になって、シアは、はにかんだ微笑を浮かべた。
 おひさまみたいなそれは、心があたたかくなるものだった。いつだって。
『ディー兄ー』
 幼い頃、とてとてとおぼつかない足取りで、白いドレスのフリルを揺らしながら、自分の後をくっついてきた時と同じ。
 各地を旅する中で、風のように生きるディークを、変わらず迎えてくれるのは、まっさらで曇りのないそれだったのだ。
 (ああ、そうか……エステルさんに昔……)
 ディークはふと、シアが生まれる前のことを思い出す。
 臨月も近い頃、大きくふくらんだ腹に、いとおしげな眼差しを注いで、エステルは慈母のように優しく微笑んでいた。
 わからないけど、女の子だと思うわ。
 夢にみたの。
 シアと名付けたいわ。
 スミレ色の瞳を細めて、あの人はディーク、と少年だった彼を呼んだ。
「この子のことを、よろしくね。きっと、貴方のことを大好きになるわ、優しいディーク」
 守れ、とは言われなかった。
 教えられたのは、ただ愛すること、それだけ。
 重ねられた手は、ふくよかであたたかい、母のものだった。
 エステルは儚くて、控えめで、気弱ではあったけど、やさしいひとだった。
 その人から生まれたのは、お姫様みたいな容姿はいっしょ、中身は似ても似つかない、じゃじゃ馬娘だった。
 僕らの太陽。
 だから、自分は――
 男の口から自然と、笑みがこぼれた。
 その時、船の出立を報せる合図が聞こえて、ディークはトランクを片手に駆け出す。
「そのうち、また戻ってくるよ」
 しばらくいったところで、彼はくるりと振り向くと、「シア」と去り際に一言、大きな爆弾を落としていった。
「その堅物な騎士に飽いたら、いつでもなびいてくれてよいんだよ?」
 言われたシアの方は、は?と目を丸くし、やがて、みるみるうちに茹で蛸のように真っ赤になった。
「ディー兄のばっか――――!」
 船のタラップを上っていくディークの背中に向かって、彼女はあらんかぎりの声を張り上げる。
 その姿が見えなくなったところで、小さく肩をふるわせると、ぐしぐしと乱暴に瞼をこすった。
 青い瞳が潤んでいる。
「無事に、帰ってきなさいよー。ディー兄、約束だから!病気になったり、怪我したりするんじゃないわよ!意外とそそっかしいところあるから、気を付けて、ああ、えっと、それから、それから……」
 シアがすべてを言い終えぬうちに、船が大海原へと漕ぎだしていった。
 夕陽が船影を映し出す。
 それを見送り、腫れぼったくなった瞼をこする銀髪の少女に、アレクシスは寄り添い、そっとハンカチを差し出した。
「……ありがと」
 くすんくすんと鼻を鳴らすシアに、「どういたしまして」と応じ、鼻の頭も赤いぞ、と続けたアレクシスは、女心がわからないという罪状で、恋心を寄せる少女から、鬼の形相で睨まれることになった。
 ディークの乗った船が見えなくなるまでの間、青年と少女は桟橋に立っていた。
「アレクシス、何か言いたいことがあるの?」
 ぽつりとシアが口を開いた。
「いや」
「本当に?」
「なぜ、そう思うんだ?」
「何か迷ってそうな顔をしてるから」
 なにも語っていないというのに、察するシアの勘の良さに、アレクシスは表情には出さねど、内心、舌を巻く。
 理屈を通さねば、納得しないのが男なら、頭ではなく心で察するのが、女性という存在なのかもしれない。
 思い起こせば、母もシルヴィアもそういう、男にはない強さがあった。多分、永遠に敵わないな、とそう悪くない敗北感の中、思った。
 結局のところ、男というのは、女に勝てない生き物なのだ。
 シアはアレクシスを見つめると、何も問わず、ただ「信じてるから」とだけ言った。
 貴方のことを。
「――自分を信じられない人間が、他人の何を信じられるっていうのよ」
 彼女の目を見つめ返し、アレクシスは、うなずいた。
 自分を信じることと、相手を信じることは、その実、とても近いものだろう。
 信じてくれる相手がいること、何よりも、それが幸せだと感じる。
「……そうだな」
 しばしの沈黙。
 大小ふたつの影が、夕陽に照らされていた。
 ディークを乗せた船が、じょじょに港から遠ざかっていく。
「寂しいか?」
 アレクシスの問いかけに、こくん、と華奢な首が傾いて、銀糸の髪が流れた。
 どちらともなく腕を伸ばし、手を繋ぐ。
 騎士の武骨な手が、少女の掌をやわく愛しいものを触れるように、くるみこんだ。
 手を繋ぐ。
 ただ、それだけの行為がかけがいなく、心の奥深くにあたたかな焔が宿ったようだった。
 この、ぬくもりを守るためならば、己はどんな犠牲でも払うだろう、とアレクシスは思う。
 同時に、ずしりと胸に込み上げてくるものもあった。
 シアが女王陛下の商人となり、王剣の名を継ぐアレクシスが、その護衛となってから、はや一年近くが経とうとしている。
 エミーリア陛下が、おっしゃった契約の期限、その区切りまで、あまり時間は残されていない。
 どのような日々にも、必ず終わりが訪れるのだ。
(……自分たちは、一体、いつまで一緒にいられるだろうか)
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