女王の商人 

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  海賊と商人 8−12  

「失敗してしまったの……?まあ、残念だわ」
 揺り椅子に腰をおろした老婦人は、ひらひらと繻子の扇を仰ぎつつ、膝にのせた子猫を撫でながら、やわらかい声で言った。
 嘆く言葉を口にしながらも、その口ぶりは今日の天気を口にするように、鷹揚としたものだった。
 はたはたと扇で風を送り、淡く笑みをたたえた口元、ゆったりとした仕草は優雅である。
 年を重ね、灰色がかった金髪は、綺麗に結われ、貌にはメイドの手によって、丁寧な薄化粧が施されている。
 時の流れにさらされていても、そこには、往時、美貌で知られた可憐な王女の面影があった。されども、室内だというのに、黒いベールと絹の手袋をし、誰を悼んでか、常に黒い喪服を纏う、その貴婦人は、同時に相対する者に、一種、異様な印象を抱かせた。
「シア=リーブルという娘、彼女と一緒にいた男二人が、思わぬ手練れでして……所詮、その辺りのチンピラには、荷が重かったということでしょうな」
 貴婦人の足元に跪いて、淡々と襲撃の失敗を報告するのは、貴婦人に雇われた刺客の男だった。
 汚れ仕事を専門に請け負うその男は、裏社会ではそこそこ名の通った存在であり、己の腕にも自身を持っていたものの、此度の゛仕事゛については失敗を認めざるをえない。
 シア=リーブルという大商会の後ろ楯を持つ他は、平凡な小娘に過ぎない相手に、自らが手を下すまでもあるまいと、地元の荒くれ者たちを雇ったのが、相手の戦力を甘く見た間違いであった。
 確かに、シアという小娘に戦う力は皆無であったが、護衛だという青年騎士は滅法、腕が立ち、その辺りのチンピラごときでは、束になっても敵うまい。
 おまけに、誤算もあった。
 共にいた亜麻色の髪の優男も、並みの商人としてはやたら強く、結局、シア=リーブルという小娘を拐うどころか、傷一つつけられなかったのだ。
 言い訳のしようもない、無惨な失敗といっていい。
 悔いるフリをし、従順な狗のように面を伏せていた男は、ちらっと依頼人を仰ぎ見た。
 貴族の汚れ仕事を請け負うことが多い男は、高貴な依頼人が人を人とも思っていない、反吐の出そうな傲慢さを備えていることを、嫌というほど思いしっていた。
 ましてや、柔和な、底知れない微笑みを浮かべた今回の依頼人、喪服を着た貴婦人は気位の高さと、血筋の高貴さは折り紙つきだ。
 どのような罵倒や、非難が飛んでくるか、予想もつかなった。だが、
身構えた男の予想を裏切るように、喪服の女は「そうなの、失敗してしまったのね」と、穏やかにうなずく。
 その後、優美さすら感じる仕草で、すっ、と繻子と象牙の細工の扇を振り上げた。
 女、リーディアが紅をさした口角をあげる。
 不穏な気配を察してか、主人の膝でくつろいでいた子猫が、にゃー、ぎにゃーと狂ったように鳴いて、揺り椅子から飛び降りた。
 飼い猫の騒がしさを気にもせず、喪服の女は唇に柔和な微笑をはいたまま、男の頭上に扇を振り下ろす。
「どうして、上手く出来ないの?悪い子ね」
 持ち手の部分が、容赦なく額にあたった。
 バンッバン、バンバン。ガツン、と痛ましい音をさせながら、象牙が何度も何度も男の横っ面を張り、額が切れ、殴打するごとに真っ赤な血が滲んだ。
 だんだんと、それは嵐のように激しさを増した。
 いつの間にやら、扇は机の上にあった刺繍の本にとって代わり、滅茶苦茶に殴打された男は、たまらず顔を背ける。
 本の角があたり、唇が切れる。
 男はチッ、と舌打ちし、いつ果てるともしれない、ヒステリックな女のそれを、無感情でやり過ごした。
 バンッバンッ。
「悪い子、悪い子……どうして、わたくしに従わないの」
 愉しげな微笑みすら浮かべながら、他人を情け容赦なく殴打するリーディアが、心を壊しているであろうことは、誰の目にも明らかだった。自覚していないのは、当の本人くらいであろう。
 無類の金払いのよさがなければ、金輪際、関わりを持ちたくない顧客である。
 ひとしきり、気の済むまで刺客の男を殴ると、喪服の女は堂々と、女王のような風格をもって告げた。
「次の失敗は、許さないわ。覚えておきなさい」
 男は割れた額を押さえながら、のろのろと身を起こすと、ほうほうの態で、扉の方へと逃げていく。
 その背に冷ややかな目を向け、喪服の女は床に落ちた、男の置き土産である資料を拾い上げた。
 あの憎むべき女、彼女の愛する人を奪った、何度も何度も、舞い戻ってくるシアという少女の報告書だ。
 そこに書かれた文字を追うにつれて、女の翠の双眸が見開かれた。
 残された資料を片手に、貴婦人は、ほくそ笑む。
 そう、あの子は。
「エミーリアの……ならば……」
 悪い子には、お仕置きをしなくてはね。薄汚い泥棒猫には、死の報いを。
 そうでしょう?クリストファーさま。




 厳重に閉ざされた高き門、壮麗かつ、威厳ある佇まいの、さる貴族の屋敷。
 貴族の特権が廃れつつある今、やや陰りが見えているものの、在りし日は、先王の妹姫が降嫁したという、名門、レイスティア候爵家。
 今をさかのぼること数十年前、まだ貴族たちが権勢を誇り、厳然たる身分差があった頃ならば、平民はこの侯爵家の門をくぐることにさえ、畏れ多さを感じたに違いない。
 緑の蔦が這う外壁も、かつては眩いほど輝いていた、そんな時代があった。
 才と人望に恵まれた若き当主は、高貴なる王妹を娶り、数年の後には、跡継ぎたる男児も産まれた。
 先王の信頼も厚かった当主は、その地位をよりいっそう強固なものにし、いまだ初々しい花嫁たる王妹は、高貴なる血筋にもかかわらず、初恋の君と結ばれた喜びに、村娘と同じく胸を高鳴らせ、恥じらうように夫に寄り添う。
 王宮のお針子たちが三日三晩、寝ずに仕上げ、あまたの輝石をちりばめた花嫁衣装、純白のレース、縫い付けられた大粒の真珠やダイヤモンドは、おそらく、十万レアールは下らなかったであろう。けれども、他に類を見ない豪奢な花嫁衣装や、絢爛たる結婚式よりも、初恋の相手と結ばれ、喜びにあふれた王妹の姿の方が、ずっとずっと美しく、また内から光を放つようだった。
 幼い頃から待ち望み、恋い焦がれた婚約者との結婚式に、嬉しさを抑えきれない花嫁の手を取り、優しく導くのは、金髪の凛々しい青年、レイスティア侯爵だった。
 王妹を見つめる彼の眼差しは、妻となる少女への愛おしさに満ちているようだった。
 花嫁の方は更にわかりやすく、恍惚とした顔つきで、花婿である青年から、片時も目を逸らそうとしない。
 十年以上も、ずっと恋い慕い、彼のものになる日だけを夢見てきたのだ。それも、無理からぬことだったろう。
 高まる祝福の声、列席の貴族たちは、美しい一対のような若き侯爵と王妹に、今後、繁栄していくだろう侯爵家の未来を思い、また若い男たちは、麗しい姫、王冠に連なる娘を射止めた、幸運なる侯爵に、嫉妬と羨みのこもった視線を送る。
 そんな男たちの視線を気にした様子もなく、花婿はそっと花嫁のベールをよけると、誓いの口づけを果たす。
 唇を寄せた時、喜びに頬を上気させた花嫁は、翠の瞳に夫となる青年だけを映し、うっとりした声で囁いた。
 ――愛しています。あいしています、クリストファーさま。わたしは貴方のもの、貴方は私のもの。私だけのもの。……永遠に。
 愛しています、という言葉に込められた意味に、花婿たる侯爵は、わずかに眉をひそめた。されど、瞬時によぎった憂いをかきけし、花嫁を安心させるよう、優しく微笑みかける。
 ――私もですよ、姫。
 彼女だけに届くよう、囁かれたそれに、ああ、やっと……、麗しの王妹は翠の瞳を潤ませた。
 婚約者であると教えられた六つの頃から、凛々しく、優雅なクリストファーの妻となる日だけを待ちわびてきた。
 それが、ようやく、ようやく叶うのだと……。
 愛します、貴女だけを。
 男の口から紡がれたそれは、彼女を傷つけない為であり、同時に、最も残酷な嘘だった。
 ――愛しています、クリストファーさま。誰よりも、何よりも。
 その日、我らの小さき王女様と国民に慕われた王妹の結婚を祝い、王城は勿論、酒場で杯をかかげる庶民に至るまで、王都ベルカルンは、歓喜に沸いた。
 侯爵家の敷地では、誰彼かまわず、無償で葡萄酒とパンと馳走が振る舞われ、花火が打ち上がり、大聖堂の鐘楼が祝福に鳴り響いた。
 誰もが、美しい王妹とその夫となった、若き侯爵の未来を祝福した。
 光輝く幸福な未来を、それぞれの胸に描きながら。
 ――クリストファーさま、私は貴方のもの。貴方は私のもの。神に認められた私たちを引き裂くことは、誰にも出来ないの。……私の、私だけの、クリストファー。
 王都中から祝福された結婚の十数年後、当主クリストファーは原因不明の病に倒れ、寝台から離れられぬ身となり、妻である王妹リーディアは突然、発狂し、以後、表舞台に出ることは、一切なくなった。
 元々、情緒不安定なきらいがあったリーディアだが、いきなりのそれに、人々は侯爵家は呪われているようだと、無責任に噂した。
 夫妻のひとり息子のコンラッドが、頑なに口を閉ざしたがため、真相は謎に包まれる。


 四隅に馬頭の飾りが施された、立派な寝台に、一人の男が眠っていた。
 齢は、六十幾つ、といったところだろうか。否、そう見えるのは、眉間に深く寄せられた、苦悩の皺ゆえで、実際は、もう少し若いのかもしれない。
 ややくすんだ金髪は、白く染まっていた。
 長年に渡り、寝台から離れられぬ身であるゆえか、頬はこけ、腕は痩せ細っている。
 しかし、在りし日を思い出させるように、眠る横顔には、どこか気品のようなものが滲んでいた。
 血色は悪く、両の瞼はかたく閉ざされており、浅く上下する胸の他には、老いた男の息吹を確認する術はない。
 こんこんと深い眠りの狭間にいるようだった。
 男の名は、クリストファーという。
 かつて、王妹を妻とし、輝ける将来を約束されたはずの男が、今や息子を除いて、見舞う者もいない。
「父上……」
 寝台の横の椅子に腰掛け、心配気に病床の父を見守るのは、金髪の壮年の男だった。
 彼、コンラッドは膝に拳をのせ、ひどく複雑そうな横顔で、わずかに唇を歪めながら、一向に目覚めぬ父を見守る。
 そこに、父子らしい会話はない。
 現当主コンラッドが爵位を継ぐ前から、父は゛不幸な事故゛で身体の自由を失っていた。
「父上、ご気分はいかがですか……?」
 コンラッドが呼び掛けながら、枯れ木のように痩せた父の手に触れると、それに応えるように、ぴくり……と指先が動いた。
 死んだように眠っていた男が、ゆっくり薄目をあける。
 空色の瞳が、眩しげにすぼまった。
 皺の刻まれた口元が動いて、
「コンラッド」
と、かすれ、ひび割れた声で、息子の名を呼ぶ。
 そうして、
「エステル……あの娘は、何処にいる?」
 そう息子に尋ねると、病床のクリストファーは切なげに、探さねばならぬのだと続けた。
 会いたいのに、健やかな姿を見たいというのに、何処にもいないのだと。
 胸が張り裂けそうな、寂しさであった。
 父の言葉に、何とも言えぬ想いが込み上げてきて、コンラッドは年甲斐もなく、子供のように、泣きたいような気分にかられる。
「……父上」
 疲れたように目を閉じると、クリストファーは、再び、深い眠りの中に落ちていく。
 コンラッドの喉から、落胆とも悲哀ともつかぬ、溜め息がこぼれた。
 そんな父子の姿を、壁にかかった金細工の額、一角獣と戯れる銀の乙女の絵画が見守っていた。
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