女王の商人

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  八章  宝石と商人 9−1  

 ――親愛なる妹、エミリーへ。

 王都の兄からきた、手紙の書き出しは、こんな文句で始まっていた。
 アレクシスの実家、ハイライン伯爵家の領地は、緑豊かなることで知られる。
 王都からは距離があり、あまり裕福とは言えないが、作物を育て、牛や馬を飼う、純朴な領民たちは愛すべき人々であり、その暮らしは平穏なものだ。
 又、彼らは先祖代々、自分たちの領地を治める、ハイライン伯爵を慕っていた。
 我らの暮らしを守ってくださる伯爵さま、税を増やして、徒に民を苦しめることもなければ、横柄な態度で、気に入った娘を差し出せなどと、無理難題を押し付けることもない。飢饉の折りには、すすんで食糧庫をあけ、食べ物を分けてくださったり、私財を投じて、川に橋をかけてくださる。
 信仰心も厚く、慈悲深い、騎士道に忠実な御方たちなのだ。
 派手な振る舞いをせずとも、誠実で善良な、歴代のハイライン伯爵家の当主と家族を、領民たちは愛した。
 王剣ハイライン。
 騎士の中の騎士と謳われ、聖剣オルバートを賜った栄誉を、忘れることはない。
 かくして、領民たちの敬愛の眼差しは、惜しくも三年前に亡くなられた先代・カーティス様の未亡人ルイーズ様、お二人のたった一人の息子であるアレクシスにも、変わることなく注がれていたのである。

 ――親愛なる妹、エミリーへ。

 変わらず、父さんも母さんも、元気にしているか。
 まぁ、お前に限っては、まったく心配していないが……大体、お前という娘は、昔から、おっちょこちょいで落ち着きがなかった。
 あの跳ねっ返りで、奥方様にご迷惑をおかけしていないかと考えると、心配でたまらない。
 くれぐれも、ハイライン伯爵家の名を、辱しめることがないように。
 いいか、そもそも使用人の心得というのは……

「……っ。だ―――っ!うるさいっ、余計なお世話よ。セドリック兄さん!」
 なおも長々と続くお説教もどきの文面に耐えきれず、エミリーは、兄、セドリックから届いた手紙を、破り捨てたいような衝動にかられつつも、かろうじて我慢した。
 此処は、ハイライン伯爵家の本邸。
 屋敷に仕える者たちに与えられた、幾つかの部屋の一室である。
 やたら、分厚い手紙の束を抱えて、肩を震わせるのは金髪の少女。
 その身には、メイドの制服である紺のワンピースを纏っている。
 意志の強そうな、いきいきとした若葉色の瞳が、愛らしい彼女であるのだが、今はその眉は思いっきりひそめられ、唇はピクピクとひきつっている。
 彼女の名は、エミリー=ローウェン。
 歳は、十七。
 アレクシスの従僕であるセドリックの妹だ。
 そして、ハイライン伯爵家に仕える、執事の父と元メイド長の母を持つ、本邸のメイドである。
「まあまあ……急に大声なんか上げて、どうしたの?エミリー」
 王都ベルカルンから届けられた、兄の手紙を読むなり、「余計なお世話よ!」と叫び出した娘に、金髪の優しげな中年女性が、刺繍をする手を休め、まあ……、と目を丸くする。セドリックとエミリーの母だ。
 エミリーはきっ、と顔を上げると、聞いてよ、母さん、と母に訴えた。
「兄さんの手紙ったら、私へのお説教と、若君様の近況とかそんなのばっかりだわ!まったく、これだから良い歳なのに、浮いた話ひとつないのよ」
 どうせ、セドリック兄さんは、若君様とご一緒に、王都で楽しくやっているに決まっているのに、とお役目の関係で、王都についていきたくても、ついていけなかったエミリーは、ぷりぷりと怒る。
 華やかな都会に憧れを持つ年頃だけに、己の夢を叶えた兄への嫉妬も、あるのだろう。
 手紙への不満を口にする娘に、母は鷹揚に笑いながら、言い過ぎよ、とたしなめた。
「セドリックは、ただ真面目で、仕事熱心なだけよ。エミリー、貴女もよく知っいるでしょう」
「そうかしら……この手紙を、その一言で片付けていいの?母さん」
 メイドの少女は、唸った。
 セドリックの長い長い手紙の半分程は、若君様、アレクシス関連のことで占められている。
 ほぼ毎度、毎度、飽きることも、尽きることもなく、こうなのだ。
 天然な母は忠義心の一言で片付けてしまうし、最近は、エミリーも真面目に突っ込む元気もない。
 はっきり言おう、兄は若君様のこととなると、あっさり馬鹿になる。
 思えば、昔は……兄を、自慢にしていた時もあった。
 エミリーは片頬に手をあてると、最早、懐かしい過去に遠い目をした。
 兄、セドリックは、黙っていれば、穏やかそうな好青年に見え、学問もよく出来、器用で何事もソツなく、おまけにメイドだった母による、家事の仕込みは完璧である。
 掃除、洗濯なんでもござれ、のみならず、お菓子作りの腕は、一級品だ。
 惜しむべきは、あの度を越した若様馬鹿っぷりと、ただ一点のみ、小姑じみた性格であろう。
「はあぁぁ、昔っから、セドリック兄さんは本当に変わらないわよね」
 エミリーは、大きくため息をついた。
 まだ身分など考えない幼い子供だった頃、歳の近かった若君様とはよく遊んで頂いて、優しい兄のような黒髪の少年に、淡い恋心などを抱いたこともあった。
 勿論、シルヴィアさまと張り合おうなんて、微塵も考えていなかったけれど。
 しかし、兄の若様馬鹿に嫌気が差し、初恋を自覚する前に玉砕したことは、彼女だけの秘密である。
 (もしも、若君様が恋人なんか連れてきた時には、どうするのかしら……?あの小姑、じゃなかった兄さんに、よくよく言い含めておかないと)
 そんな風に、遠く離れた王都にいるセドリックとアレクシスがくしゃみをしそうなことを思いつつ、エミリーは、
「便箋十枚なんて、いくら何でも書きすぎよ、兄さん……読むのに、一晩かかるわ」
と、げっそりした顔でぼやいた。
 几帳面で筆まめなのは父に似たのか、ああだこうだ言いつつ、自分も天然なのは、母に似たのか……どっちだ。
 最早、セドリックによる若様日誌とかしている代物を、生あたたかい目で流し読みしていたエミリーは、兄の手紙の、最後の最後に記されていた一文に、ぎょっと目を剥いた。

 ――来月、若様と共に帰る。父さんと母さんにもよろしく。

 追伸 そちらは寒くなる頃だろうが、風邪なんか引くんじゃないぞ、エミリー。腹巻きは、編んでおいてやる。

                        セドリックより

「それを最初に書きなさいよ!兄さんの馬鹿あああぁ……!」
 エミリーは恨めしげに、天を仰いだ。
 最初から、その一行で用件は事足りたはずだ。
 しかも、うら若き乙女に対して、腹巻きを編むとか言い出す男は、どうなのか。
 うん、あったかいし、待っているけど!って、ああ、肝心なことを忘れるところだった。
 エミリーは慌てて、揺り椅子から立ち上がった、母の背中を呼び止めた。
「母さん!」
「あら、どうしたの?エミリー。何かあったのかしら」
「セドリック兄さんが、若君様のお供で、近々、帰ってくるの。知っていた?」
「まあっ、そうなの!それはそれは、又、屋敷が賑やかになるわねぇ」
 若君様の好物の野菜たっぷりのシチューを作って、お迎えしないとね。あの子の為に、ラズベリーパイも。
 屋敷の若君様と久方ぶりに帰ってくる息子の為に、食卓のメニューを考える母は、浮き浮きと楽しげだった。
 妹は「母さんは、相変わらず、呑気ねぇ……」と首を横に振ったものの、こうしてはいられないと扉の方に向かった。
「エミリー、何処にいくの?」
 後ろからかかった母の声に、エミリーは後ろを振り返らぬまま、応じた。
「奥方様に、お知らせにいくの。若君様が帰って来られるなら、良い報せは、早い方がいいもの」
 兄さんのことは置いておくわ、とわざとらしく顔をしかめ、廊下に出ていった娘を見送り、セドリックが決して頭が上がらぬ母は、おっとりと唇を綻ばせた。
「また、そんな意地を張って……セドリックが帰ってくるのを、一番、楽しみにしていたのは、貴女なのにね。エミリー」
 子供たちの心理など、お見通しといいたげなそれに、エミリーは聞こえないフリを貫いた。
 窓越しに、柔らかな日差しが差し込む廊下を歩いて、奥方様の部屋の扉が見えた時、エミリーは、コホンッ、と咳払いをすると、静々と歩調を緩めた。
 気取っているわけではなく、女主人の前では、品良く振る舞いたいのは人情だろう。
 ましてや、好きな主人の前なら尚更だ。
 ゆったりと、品の良い所作を心掛け、鈴蘭の彫られた扉を、ノックする。
 誰、と中から奥方さまの、ルイーズの声がした。
「失礼します、奥方様」
「その声は、エミリーね。ええ、どうぞ」
 エミリーはゆっくりとノブを押し上げ、屋敷の女主人の部屋へと、足を踏み入れた。
 扉を開けた時、アレクシスの母、ルイーズは書き物机で、さらさらと羽ペンで何某かを書きつけているところだった。
 小首を傾げ、菫色のドレスを纏った姿には、貴族の奥方らしい優雅さと気品がある。
 ルイーズはエミリーの姿を認めると、目を細め、「どうかしたの?エミリー」と、尋ねた。
 エミリーは一拍おくと、勿体ぶって答える。
「はい、今日、兄から手紙が……今度、若君様が帰っていらっしゃると」
 ああ、そのことね、とルイーズはあっさりとうなずいた。
「今日、アレクシスからも、手紙が届いたわ。近々、こちらに帰ってくると」
「あ、そ、そうでございますか……」
 なんと奥方様は、既にご承知のことだったのか。
 そうとも知らず、得意げに勿体ぶった自分が恥ずかしく、エミリーは赤面した。
 考えてみれば、母親思いの若君様が、領地に帰るというのに、ルイーズ様に手紙の一通も出さないなんてこと、考えられないではないか。
「そう……手紙には、近々、帰るとだけ。情緒も、何もありはしないわ。あの子の無骨さは、誰に似たのかしらね。エミリー」
 息子の情緒のなさを嘆く女主人に、エミリーは仰る通りですとうなずくわけにもいかず、ただ「ははは……」と乾いた笑いで誤魔化す。
 ルイーズは微苦笑を浮かべると、エミリー、とメイドの少女に呼び掛けた。
 メイドと言っても、それこそ、生まれた時から知っているので、さながら娘のような存在だ。
「貴女は、幾つになったのかしら?」
「え、ええ、十七になりました。奥方様」
 脈絡のない問いに戸惑い、きょとんとした表情をしたエミリーに、ルイーズは、そう、と静かに微笑んだ。
「アレクシスも、もう十八ですものね。ついこの間まで、小さな身体で、剣の稽古をしていた気がするのに……月日が流れるのは、早いこと」
 ルイーズの瞼の裏に浮かぶのは、在りし日の夫と、剣の稽古に励む幼い息子の情景だった。
 一人息子のアレクシスを、王剣ハイラインの名を継ぐに相応しい剣士に育てようと、厳格な夫の鍛練は、子供には厳しいものであったし、小さな頃のアレクシスは、たびたび怪我を負っては、母としてルイーズは、随分と気を揉んだものだ。
 それでも、一緒に愛馬の世話をしたり、不思議と気は合うようで、仲の良い父子だった。
 ――あの子が、アレクシスが帰ってくる。
 以前、息子の暮らしぶりを見に、王都に赴いた時以来だから、久しぶりの再会が嬉しくないといえば、嘘になる。
 ただ、何かが動き出そうとしている、そんな兆しを感じるのも事実だった。
 亡き夫の最後の願いは、叶うのだろうか。
「聖剣オルバートを、探してくれ」
「……あれは、失われてしまったんだ。誰のせいでもない」
「私の責だ。あいつの気持ちを、わかってやらなかったから……」
 面倒ばかり残してすまない、ルイーズ。と最期にあの人は詫びた。
 かつて、剣を握っていたカーティスの逞しい手は、痩せ衰えて。
 私は……。
「奥方様?」
 不思議そうな顔をしたエミリーに、ルイーズは「あの子が帰ってくるならば、支度をしないとね」と、穏やかに語りかけた。
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