女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  海賊と商人 8−4  

 ――海への憧憬が芽生えたのが、何時のことだったか、ディーク自身、はっきりとは思い出せない。

 幼い少年が夢見たのは、潮風を白い帆で受け、航海図を広げながら、船長として皆を率い、遥か遠い海の果てを目指す、己の姿だ。
 大海原を越えるうち、異国の海賊と戦うことも、未開の部族と遭遇することも、あるかもしれない……まるで、冒険小説のような想像を、よく思い描いていた。
 ディークが、そんな将来を思い描くようになったのは、商人だった父の影響が強いだろう。
 彼の父は、先見の明がある男で、早くから異国との貿易に力をいれ、港にもよく足を運んだ。
 子供だったディークは、とてとて、とその背中を小さな足で追いかけ、時に、その大きな背中に乗り、肩車をしてもらったものだ。父の首に手を回し、常よりも高くなった視界からは、いつもと違う景色が見える。
 どこまでも広がる紺碧の海、ざらざらとした潮風、口を開けると、どこか塩っぽい味がする気がした。
 船着き場に並んだ、大きな船、小さな船、純白の帆を張るガレオン船は、さながら、海の貴婦人の如く――。雲と雲の間を、優雅に旋回しながら、海鳥が飛んでいく。
 時折、幼子の耳に飛び込んでくるのは、異なる大陸の言葉。
 日に焼けた肌、丸太のような二の腕をした船乗り達は、迷信深く、気性の荒い者も多いが、一度、陸地に戻れば、大らかで陽気だった。
 酒が入れば、赤い顔で笑い転げ、興が乗れば、大声で歌い、テーブルの上で下手くそな踊りを披露する者もいる。
 港町の気安い酒場で、父の膝にのったディークは、ぽりぽり豆をかじっていたものだ。
 強い酒を傾ける父を横目に、船乗り達と会話を交わす、その声に耳をそばだてる。
 海の向こう、見果てぬ土地の話には、心が躍った。もっと、聞いていたいと思うのに、自然とまぶたは重くなっていく。あちらの国では、何が流行っているのか、香辛料は高く売れる、などと、商売の情報を仕入れる父の声を、子守唄の代わりにしながら、こくりこくり、幼子の首は揺れて、父に頭を撫でられるまま、浅い眠りにおちる。ゆらゆら、波間の彼方、海の夢を見た……。
 そんな船乗り達の自由な生き様に、ディークは子供心に憧れていたし、何者にも縛られない、その空気を愛してもいた。
 大人になったら、彼らのような船乗りになって、大海原に乗り出すのだと、そう決めていた程である。
 幼い子供にとっては、父と、目の前に広がる海こそが、世界の全てだった。――伝説の商人・エドワード=リーブルに、出会うまでは。
「お客さん……?」
 五つか六つか、そこらの時だっただろうか。
 大切なお客様が来るのだと、そう告げた父に、ディークは誰だろう、と小首をかしげた。笑顔でうなずいた父は、「凄いお人だよ。お前も一度、挨拶だけでもさせてもらいなさい」と、心から嬉しそうに言った。
 そこまで上機嫌な父を見ることは、滅多になく、息子は不思議そうに目を丸くする。けれども、凄い人という言葉に、思い浮かぶものがあった。
「例のエドワードって、人?大旦那さま?」
 幼い息子の目を見て、ディークの父は、笑顔で首を縦に振る。
「そう。父さんが一番、尊敬する方だ。エドワード=リーブル、というんだよ」
「ふぅん……」
 父の言い様が、あまり面白くなくて、ディークは気のない相槌を打つ。
 息子である彼の目から見て、父は尊敬できる、優れた商人だった。子供だから、小難しいことはわからなかったけど、父は話の運び方が上手で、人望も厚く、一度した約束は絶対に違えない、そんな筋の通った男だった。
 皆から頼られ、慕われる父の姿は、ディークの理想であり、誇りでもあった……が、そう言うと、父は決まって、リーブル商会には、自分など足元にも及ばないような、凄い方がいるのだと、首を横に振った。父の膝にのり、その言葉を聞くたび、会ったこともない、その凄い人の姿を想像しつつ、絶対、ウチの父さんの方が恰好いいに決まっていると、すねたように口を曲げていたものだ。
 ――エドワード=リーブル、どんな人なんだろう?
 父さんよりも、ずっと年上らしいから、挿絵本で見た賢者みたいなお爺さんだろうか。それとも、筋肉隆々の大男だろうか。厳めしい顔をして、下手なことをすれば、ガミガミと叱るような人だろうか。優しいだろうか、怒りっぽいだろうか、……わからない。どんな人なの、と父に尋ねるのも、なんとなく癪にさわる。
 別に来なくてもいいのに、とそんな身勝手な事を思って、ディークは「こら!行儀が悪い」と叱られながら、クッションにむくれた顔を押しつけた。
 そんな幼い子供の願いもむなしく、予定通り、エドワード=リーブルという人は、ディークの父に会いに来た。
 何でも、父はリーブル商会から援助を受けており、任せた事業が軌道に乗っているかどうか、確認に来たということだった。良い子にしていなさい、と口をすっぱくした母に言い含められ、一張羅の服を着せられたディークは、隅でじっとしていた。
 何時になくソワソワした様子の父や、周りの浮足立った様子に反して、その人は小さなトランクひとつ、まるで旧知の友に会いに来るような気安さで、訪ねてきた。
「よっ、久ぶりだな。エンリーク、元気にしてたか?」
 ディークの予想に反して、父の名を呼んだ、その壮年の男は、厳めしくも、こわそうでもなかった。
 灰色の髪は綺麗に撫でつけられ、やや垂れた緑の瞳には、思わず警戒を解いてしまいそうな愛嬌がある。
 にかっと笑う顔は、活力に溢れており、実際の年齢よりも、若く見える。
 ズボンの左足のところがすぼまり、右手には、馬首の飾りのついた杖を手にしていた。
 小さなトランクひとつ、供も連れずにやってきたその人に、父は恐縮したようだった。
「大旦那様。言って下されば、お迎えにいきましたのに……」
 先代様に何かあれば、私がクラフト、いえ、当代に叱られます……と、渋面になった父に、その人、エドワードは、まるで、いたずらを失敗した子供のような顔で、肩をすくめる。
「わりぃ、悪い。堅苦しいことは、苦手なもんでな。気楽な一人旅の方が、性に合ってんだよ」
 悪い、悪いと謝りながらも、悪びれず、にかっと歯を見せた壮年の男に、ディークの父はしょうがないという風に、呆れ混じりのため息を吐き出す。
 渋い顔をしながらも、「まったく……大旦那様らしい」という父の声は、嬉しそうだった。
 そんな父と、客人である男の会話を、ディークは柱の影から見ていた。……退屈だった。こんな事なら、船着き場にでも遊びに行っていた方が、よほど面白い。父に内緒で、こっそり出掛けてしまおうか。
「……おー、そこのちっまいこいの、もしかして、エンリークのガキか?」
 その時、くるり、と首がこちらに向けられ、同時にかけられたエドワードの声に、ディークの足は止まった。
 顔を上げると、「そっくりだな。ウチの息子のガキの頃にも、似てやがる」と、抑えたような笑いがもれる。
 垂れ気味の瞳は、優しいものをたたえていたけど、なんとなしにムッとし、顔をそむけた。
 それを、父が見咎める。
「ああ、息子のディークです。ほら、ご挨拶なさい」
「……大旦那様、初めまして、ディークです」
 父に促され、ディークは渋々と挨拶をする。
 我ながら、自覚する位の愛想のなさだったが、向かい合うエドワードが、機嫌を損ねた様子はなかった。
 その代わり、返されたのは、満面の笑顔と、親しみのこもった声だった。
「エドワードだ。よろしくな!坊主」
 うなずきながらも、変わった人だな、とディークは思った。
 父にも子供である自分にも、同じ目線で話しかける人は、初めてだった。
 このアルゼンタール一の商人だと聞いたが、偉ぶったところは全くなく、気安い。無邪気な屈託のない笑みは、いい大人だというのに、まるで子供のようだ。それでいながら、その大らかな態度は、周りを包み込む海のような寛容さも、備えている。――ふと気が付けば、心を開かずにいられないような。
 そんな風に思わされるのが気に食わなくて、ディークは引っ込み思案な子供を装うようにして、父の背中に隠れた。
 やわく細められた眼差しに、父の袖を掴みながら。

 リーブル商会を代表しての、エドワードの視察は、一日半にも及んだ。
 父は数人の部下を連れて、船着き場やら、倉庫やら、輸入品を扱う商人やらの元へと、エドワードを案内する。
 次々と、休む間もなく案内される場所に、客人の男は、疲れた素振りも見せず、異国の珍しい工芸品に「おおっ!」と目を輝かせ、最新の望遠鏡をのぞきこんでは、「こいつは、すげえな……っ!」と感嘆の声を上げた。くるくると変わる、その表情はまったくもって、屈託なく、視察に緊張していた者たちの纏う空気も、自然とゆるいものになる。
 伝説の商人と呼ばれる割には、エドワードの態度に権高さは皆無だ。されども、時折、すがめられた瞳に宿る光は鋭く、言葉の端々には計算高さも垣間見える。
 好奇心から、父のあとをついて回りながらも、ディークは、やっぱり変な人だ、と思いながら、その杖をついた男を見つめていた。
 父の説明を聞きながら、船着き場を回っている間、ふむふむと相槌を打っているだけであったのに、ふいに足を止め、口に出された提案に、父達は顔を見合わせ、目から鱗という顔をする。
 想像もしなかったアイディアを、まるで世間話のひとつのように、いとも容易く口にしたかと思えば、船着き場にめずらしい荷が届いたと聞いて、見に行こう!と子供のように張り切る。
 ゆったりとした足取りで歩みながら、軽快に口笛を吹く、エドワードの背中を、父のような大人たちが、子ガモのように追いかける様は、可笑しくさえあった。
 破天荒で、子供のように無邪気かと思えば、他人を自分の側に引きこむことに、全く悪びれないしたたかさ……浅いと思えば深く、深いと思えば、広い。
 ――さながら、光の加減によって、とりどりの煌めきを内包する、硝子玉のようだ。
 その後ろ姿を、ディークは手持ち無沙汰に、地面に絵を描きながら、胡散臭げに眺めていた。
 いつもと違う、特別な空気が、幼い少年には居心地が悪く感じられて、早く、これが終わらないだろうか……とすら思っていた。
「とりあえず、これで全部か……また近々、当代が、様子を見に来るとは言ってたがな」
 幾つかの改善点を指摘した後、くしゃりと相好を崩し、
「ウチの馬鹿息子が来れなくて、わりぃな……また王都に来た時は、いっしょに酒でも酌み交わしたい……なんぞ、未練がましく言っていたぞ」
と言づてしたエドワードに、ディークの父も「当代は、お変わりないようですね……」と懐かしげに笑う。
「さぁて、と、じゃあ、これで仕事は終わりか……」
 後ろで聞こえた声に、ディークはようやくかと思いながら、地べたに座りこんでいたせいで、ズボンについた砂をはらう。空を仰げば、日はまだ高く、日没まではまだ時間がありそうだった。遠く、たなびく白い帆を見て、少年が、どちらに行こうか思案していた時だった。
 幼い子供の小さな体躯が、ふわり、宙に浮く。
「え……」
 目を、ぱちぱちと瞬かせる。
 抗議の声を上げる暇すらなく、ディークの身体は、エドワードに抱き上げられて、脇に抱えられていた。
 小さな手足を動かしても、がっしり抱え込まれているせいで、びくりともしない。
 ぽかんと口をあけたディークの唖然とした様子も、どこ吹く風で、にかっと破顔したエドワードは。上機嫌にこう言い放った。
「よしっ。じゃあ、コイツ、案内役として借りていくぞー!エンリーク、息子は日没までに返すから、心配するなよ!」
「ちょっ……」
 勝手に決められたそれに、ディークは「待って、父さ……」と、助けを求めるが、周囲は聞く耳をもたず、父はにこにこと笑顔で「気をつけて」と手を振る始末だった。――あんまりだ!と、息子は心中で毒づく。
 諦めて、小脇に抱えられたディークは、だらんと手足を垂らし、「僕、歩けますから、おろしてください」と、不機嫌さの滲む声音で言う。赤ん坊でもあるまいし、と。振り返れば、ディーク自身、自覚せずにはいられないぐらい、可愛げのないガキだった。
「おお、悪い」
 そんなディークの態度にも、エドワードは気を悪くした様子もなく、屈託なく、楽しげなままだった。子供相手だから、というよりは、それが、素の顔なのだろう。
 慎重に地面におろされたディークは、せいいっぱいのしかめ面をし、自分を連れ去った元凶を睨みつける。
 僕、家に帰りたい、と言うと、二秒で却下された。
 幼い少年はむっとしたものの、妙に大人びた思考で、仕方ない、とため息をつく。
「……どこに連れて行くんですか?」
「さあ、どうすっかね。ま、これから、決めればいいさ」
 未だ高い太陽に眩しげに目をすがめ、額に手をかざしたエドワードの返答に、ディークはきょとんと小首をかしげる。――どこか行きたい場所が、あったのではないのだろうか?
 潮の匂いのする風に、深緑のタイを遊ばせながら、その人は何とも豪快に笑った。
「風の向くまま、気の向くまま、そういうのも悪くねぇもんだぞ。坊主」
「……坊主じゃない。ディーク」
「おうっ。じゃあ、行くか!相棒……お前さんと違って、こっちの時間を短けぇからな、いろいろ見て回らなきゃ損だぜ」
 上機嫌に先を行くエドワードの杖の音を聞きながら、ディークは「やれやれ」と奇妙に大人びた仕草をし、よく知り尽くしたはずの場所を案内し始めた。
 それから先の数時間は、とにかく嵐のようだった。
 港で、うししと笑うエドワードに、鋏を縛られたロブスターを鼻先に突きつけられて、ディークが「わっ」と目を見開いたり、レストランで隣り合った、異国の船乗りともあっという間に打ち解け、少年には意味のわからぬ言葉で、冗談を言い合うエドワードは、不思議な存在だった。
 海が見たいというから、そちらに行けば、埠頭の一角に腰をおろし、エドワードは何事かを紙にスケッチし始める。
 新造船かうんたらかんたら、と言っていたが、幼い子供にはわからぬことだった。ただ、その眼差しは真剣で、何やら邪魔してはいけないような気配があったので、脇に座りこんだディークは、ぼぉ、と波と空の重なる色合いを、見るともなしに見る。
 そうかと思えば、浜辺で遊んでいた子供たちを見つけて、「よっし、遊んでもらえ!」とエドワードの手によって、その中心に放り込まれて、もみくちゃにされたディークが、目を白黒させたり、とにかく無茶苦茶だ。
 普段、歳の離れた大人ばかりに囲まれて、割と物静かに過ごしていたディークにとっては、青天の霹靂だった。
 たった半日であるのに、とてつもなく沢山の出来事を体験したような気分になりながら、ディークは港の一角に置かれたベンチに、エドワードの並んで腰を据える。子供の体力としては限界で、でも、なんとなく達成感のようなものがあった。――隣のエドワードを、なんて、無茶な大人だと感じる気持ちは、変わっていないのだけれど。
 ちらり、横目を向ける。
 ディークの目に映るエドワードは、疲れた素振りも見せず、じょじょに橙に染まりつつある海面を、ゆるりと沈みゆく太陽を見つめて、あわく笑んでいる。それは、今日一日、その人が見せたどの表情とも異なっていた。残照が、その横顔をくっきりと浮かび上がらせている。
 何を言えばいいのか、感情を持て余して、ディークは膝を抱え、丸くなる。
「見なくていいのか、坊主……?夕焼けが、海に映ってなあ、すっげぇ綺麗だぞ」
「いいです。毎日、同じもの見てるし」
 疲れたと顔を伏せるディークに、エドワードは、勿体ねぇなあ、と淡い苦笑を浮かべる。
「同じもんは、二度とねえぞ。海も空も雲も、見れんのは、毎日、違う顔だ。人間とおんなじだよ――その、一番いい瞬間を見逃すなんて、惜しいってもんだぜ」
 それは諭す風でもなく、さらりとした言葉であったのだけど、何故か、幼い少年の胸に小さな波紋を起こす。
 海は好きだったけど、そんな風に考えたことは、今まであっただろうか?
 けれども、その言葉の意味を理解するには幼すぎて、ディークは黙って、オレンジの色に染まりつつある、海面を見つめる。青から藍、薄紫、透明な波が揺らいで、光が散る。見慣れたはずの景色が、いつもと少し、違う風に見えた。隣のエドワードには、この無茶苦茶で、でも、目が離せないこの人には、もっと違う景色が見えているのかもしれない。
 ――それを見れないのは、寂しい、とほんの少しだけ思った。
 黙り込んだ少年の髪を、くしゃくしゃと大きな手が撫でる。その手は、父さんの手よりも皺が深くて、荒っぽくて、でも、なんとなく安心した。
「ほんとうに綺麗なもんはな、言葉になんかなんねぇよな。坊主」
 残照のひかり、昼と夜の狭間、暮れゆく海は、言葉にならないほど……急に胸がしめつかけられるような気分になって、ディークはぐっ、と喉をつまらせた。
 その想いを、なんと口にすればいいのか、わからない。今日も明日も、きっと明後日も、言葉にはできない。でも、この空と海の色は、今日、この時、この瞬間だけのものだと思うと、なんだか切なくなった。
 穏やかなエドワードの声は、寄せてはかえす波のようで、その眼差しは、太陽の沈みゆく彼方へと向けられていた。
 (太陽が、海に溶けてゆく……)
 (僕もいつか、大人になれば……)
 (この人と同じ景色が、見れるようになるのかな……)
 なるんだ、と思った。
 すごくすごく頑張れば、なれるような気がした。
 だから、ディークは――



 気温が高く、やや寝苦しい夜のことだった。
「ふわぁ、ああああ……」
 ごしごしと、寝惚け眼を擦りながら、アルトは大あくびをした。
 今日の仕事を終えて、疲労感と共に寝台に入ったものの、上手く寝つけず、水でも飲もうと、手元の燭台の灯りを頼りに、暗い廊下を歩む。
 彼ら三つ子、エルト、カルトたち見習いの部屋は、リーブル商会の客室を改装した場所である。
 シアやクラフトら、長の家族が暮らす棟とは、隣り合うような造りだ。
 他にも数人の見習いたちが、寝食を共にしており、衣食住を含め条件は悪くない。
 特に、十二かそこらで見習いになったアルトたちにとっては、六年以上もの歳月を過ごしている場所であり、かってしったるもうひとつの我が家のような、愛着のある存在だ。故に、宵闇に包まれた廊下であっても、柱に小指をぶつけるような失態はおかさない。
 常よりも、緩く気崩れた服、寝癖でハネた髪、腰を丸めた青年の影を、かぼそい蝋燭の光が照らし、壁面にシルエットを描き出す。
 ぺたぺたと、皆が寝静まった時刻、廊下に靴音が反響する。
 その時、かすかな、囁くような声が聞こえた気がして、アルトは「うん?」立ち止まった。
 首をかしげる。
 ひそひそ、と誰かの耳に入ることを厭い、抑えたような話し声。
 きょろきょろとアルトが周囲を見回すと、ある部屋の扉の隙間から、一筋、橙の灯りがもれていた。
 先程の会話は、その扉の奥から聞こえたもののようだった。
「……」
 アルトはふらり、と無意識に、その灯りに引き寄せられるように、扉に耳を寄せた。
 言い訳しても、信じてもらえないかもしれないが、それは意図しての行動ではなく、盗み聞きしようなどという気は、欠片もなかった。が、後でそう言ったところで、信じてはもらえまい。
 悪い、早く離れなければ、と思うのに、アルトの身体はその場から動けなかった。
 扉越しに、彼の耳に飛び込んでくるのは、よく知った男たちの声だ。
「次代のリーブル商会の長の件か……」
 そう言ったのは、クラフトだった。
 当代の長の声、その唇から紡がれた、なにやら重々しい言葉に、アルトは小さく息を呑む。
「確かに――君の方が、商人としては、遥かに優秀だ。ディーク」
「……ならば、例の件は、僕にお任せ頂けますか?長」
 応じた声は、穏やかながら、芯の強いものだった。
 ディークだ。
 構わないよ、とクラフトが鷹揚に笑う気配がした。
「君は、自由だ。ディーク……好きに動くといい」
「有難うございます、長」
 交わされた会話の内容、その言葉に込められた意味に、アルトは目を見開く。
 驚きの余り、片手が少し扉を押してしまった。
 キィ、という乾いた音に、うわと狼狽する。
 何とも後ろめたいものを感じて、青年の頬から、サァ……と血の気が失せた。
 慌てて、扉から距離を取ろうとするが、間に合わない。
 扉が開いて、亜麻色の髪が光を弾くのを見るにつれ、アルトは覚悟を決めざるを得なかった。
「盗み聞きとは、感心しないなあ……」
 怒りではない、ゆったりとした諭すような声音だった。
 部屋の照明を背にし、揺らめく燭台の炎に照らされたディークの横顔は、奇妙なまでの迫力があった。
 優男、と評されるような風貌にもかかわらず、その立ち姿には、抗いがたいまでのものが感じられる。
 すぅ、と音もなく後ろ手でノブが捻られる。
 アルトは反射的に数歩、よろめいた。
「あっ、すみません、俺……」
 盗み聞きなんてするつもりじゃ、と泡を食うアルトを、ディークは咎め立てはしなかった。
 その代わり、ふっ、と口角をあげて見せる。
 その男が纏う、野生の獣のような気配に、アルトは瞠目した。
「ディークさん……!」
「僕はね、此処が、リーブル商会が好きで、大切だよ。あの人が築き上げた場所が、誰よりも、何よりも……」
 そう語り、ディークは歯を見せ、牙を晒すように笑う。
 容貌こそ似れど、血縁たるクラフトとは、似て非なるもの。
 燃え盛る炎のような、どこまでも苛烈なそれ。
「――だからこそ、もし、あの子が長になりえないなら、奪うまでさ」
 緑眼の奥に宿る、本気の色に、アルトは唾を呑み込む。
 ディークさん、と名を呼びかけたそれは、音にはならなかった。
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