女王の商人

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  海賊と商人 8−5    

 赤薔薇のかぐわしい香りに、皺を刻んだ目元が、緩やかに細められた。
 チョキン、チョキン、と庭師の鋏が鳴る。
 剪定された枝が、いまだ咲かぬ蕾が、ぱらぱらと地面に散っていく。
 そこは、このアルゼンタールにおいて、名の知れた貴族の邸宅であった。
 建国時より王に仕え、王家とも縁戚にあたる、名門中の名門である。
 高き門、歴史と威厳を感じさせる洋館の造りは勿論、とりどりの花が咲き乱れる庭もまた、名を辱めぬ程に見事であり、細部まで、よく手入れが行き届いている。庭の女主人の如く、誇り高き芳香をただよわせる薔薇、アーチから垂れ下がる白い花がさながら、シャンデリアのような麗姿を見せる。
 美しい庭だった。
 庭を隅々まで照らす、日差し暖かく、鮮やかなる花々と、目に眩しい緑、優雅な芳香がひろがるそこは、本来であれば、文句のつけようもない光景だ。
 甘やかな香りが風にのり、光に祝福されたようですらある……が、にも関わらず、美しい、とそう素直に口に出来ないのは、その奥に、どこか暗い影を感じるからだろう。
 光浴びるそこ、芽吹く草木は生き生きと、生の気配に満ち溢れているというのに、立ち込める空気は、何故か重々しく、暗い陰りを帯びている。
 色鮮やかに、自然の美を描いたはずのキャンパスに、無理やり灰色のベールを被せてしまったような、そんな不快感があった。
 もっとも、庭にいる二人の男女は、そんな居心地の悪さを、露とも意識していないようだったが。
 ――ひとりは、この屋敷の女主人であろう。
 奇妙にも、喪に服すような黒づくめのドレスを纏った、老婦人であった。あたたかな日差しは、うすらと汗をかくほどであるというのに、黒いベールを被った老女は、肘先までの黒手袋を脱ぐそぶりすら見せない。
 陶器のような白い肌は、日に焼けるのを厭うように、厚く化粧を施されている。
 ましろに塗りたくられた貌の中、その唇だけが、いっそ毒々しいほどに紅い。
 ベンチに腰を下ろした、黒いドレスの老婦人は、胸にお気に入りの子猫を抱き、ぼんやりとした瞳を、庭の薔薇たちへと向けている。
 その翠の瞳は、咲き誇る薔薇を映しているようで、その実、何も映していないような空虚感をたたえていた。
 絹の手袋が、子猫の毛並みを撫でる。
 老婦人の腕の中、碧眼の子猫はうとうとと、主人の胸に抱かれて安心したように、まどろんでいた。きらきらと散る陽光に、眩しげに身をよじりつつも、主人の寵愛を受けた白猫は、撫でてくる手に甘えるように、その身を寄せる。
 にゃあ、にゃー。
 黒いベールから透ける、翠の双眸が、ようやく焦点を結んだようだった。
 ふわり。愉しげに、紅い唇がほころぶ。
 子猫を撫でる手が、わずかに力を増した。
「……良い子ね。素直で可愛くて、あの泥棒猫とは大違い」
 泥棒猫、とは一体、誰に向けられた言葉であったのだろうか。
 淡々とした声音であったが、刹那、老婦人の眼に狂気が滲む。
 子猫は警戒したように、高い鳴き声を上げたものの、主人が動かないのを見て、再び、その腕に身を任せた。
 ――チョキン、チョキン。
 銀の鋏が、薔薇の蕾を落としていく。
 ベンチに座った老婦人に背を向け、アーチの隣で身をかがめ、庭師の男はもくもくと薔薇の剪定作業をしていた。
 顔を覆い隠すように深く、帽子をかぶった庭師は、老女の声に応じることなく、無言でしなびた薔薇を摘んでいく。気だるげに息を吐いた老婦人の無聊を慰めようという気持ちは、少なくとも、今のその男にはないようだった。
 泥棒猫、と狂気が滲む口調でつぶやいた、喪服の婦人に庭師の男は、ほんの少し口角を吊り上げた。が、背を向け、熱心に作業にいそしむ男のそれに、目を留めた者は誰もいない。
 帽子に隠された表情は、うかがいしれなかった。
 ――庭師というのは、その男の、表の顔に過ぎない。
 もくもくと仕事に勤しみ、無骨な職人肌のようにも見える庭師は、裏社会では汚れ仕事の請負人として、知られた男だ。やんごとなき血筋の方々を顧客にした、血生臭い用件を引き受ける、刺客でもある。大金の為なら、依頼主の靴の裏を舐めることすら、やぶさかではない。
 彼のおかげで、恋敵にえげつない毒を盛り、二目とみられぬ顔にした淑女は、夜会のシャンデリアの下、夫の隣で楚々とした微笑みを見せ、子を孕んだ愛人の始末を依頼した、美食家の男爵は、シェフ自慢、油の乗ったサーモンの皿に舌鼓を打つことができるというものだ。
 実力はともかく、どのような汚れ仕事をも躊躇なく請負い、手段を選ばぬ男として、その存在は重宝がられている。
 棘で指先を傷つけぬよう、注意を払いながら、男の鋏が薔薇の茎を切る。真っ赤な薔薇が、花びらを散らしながら、ぼとりと地面に落ちた。泥にまみれたそれに、本来の麗しさはない。一輪、二輪、まだ枯れぬ花がおちる。さながら、断頭台で首を落とすにも似た。
 地面に散る薔薇を見つめ、老婦人が笑む。紅い唇が、歪んだ。
「……あの娘を、わたくしの前に連れてきなさい」
 あの銀髪の娘、おお、口にするのもおぞましい……清らかげな顔をしている癖に、私の愛する人を騙した、汚らわしい売女。卑しい血筋の女、一体、どんな嫌らしい手段を使って、私の大切な大切なクリストファーさまのお心を、誑かしたというの?あぁ、神よ……。許せない。許せない。あああああああ、憎い、憎くくて、たまらない。
 あのお綺麗な顔が、苦痛で歪んで、惨めに床を這いつくばりながら、許しを乞うたら、その貌を靴の先で、何度も何度も腫れ上がるまで殴打してやったら、死ぬまで踏みつけてやったら、少しは気が晴れるだろうか。否。
 恐ろしいほどの増悪が滲んだ言葉を、舌にのせながら、老女は己の心がどす黒い闇に塗りつぶされていくのを自覚した。いいや、ずっと前から、そうだった。
 クリストファーさまは、私のもの。髪の毛から爪の先に至るまで、すべて私のもの。――私のものなのよ。
 狂気に満ちた女の囁きにも、庭師の仮面をかぶった男は、慣れているのか、うっそりと笑うのみだった。
 子猫の柔らかな腹に、女が爪を立てる。手袋越しに、食い込んだそれに、猫はキシャーと驚いたように鳴いて、高く跳躍すると、主人の腕から逃げ出した。老婦人は、あらあら、と優雅なしぐさで、頬に手をあてたあと、おっとりした風情で続ける。ああ、そうね……。
「攫ってくる時、生死は、問わないわ――もし、殺すなら、出来るだけ、惨たらしいのがいいわね。そうね、あの忌々しい貌を、半分だけ潰すとか」
 喋りながら、喪服の老婦人は、地面に散った薔薇を、グシャグシャに踏みつける。
 赤い花びらが、泥で黒く染まるまで、何度も、何度も。
 踵を振り上げる。そうしている間、翠の瞳は恍惚の色さえ帯びていた。
 にゃあ、にゃあ、と主人の変貌に怯えた子猫が、まるで、発情期のようにうるさく鳴く。
 誰かが来そうな気配を察し、庭師の男は、胸の前に手をあて、女王に仕える臣下のような、気障ったらしい礼を取った。
「心得ました、奥様。どうぞ、紅茶でもお飲みになって、ゆるりとお待ちになってくださいませ」
 そう、芝居がかった声音で言うと、庭師の男は素早く、木々の間に身を隠しながら、瞬く間にその姿を消した。
 後には、ぼんやりとベンチに座り、虚空を見上げる老婦人と、ぐるぐると主人の周りをさまよいながら、にゃあにゃあにゃあと狂ったように鳴く猫のみが残された。
「……奥様っ!」
 その時、青ざめた顔をした若いメイドが、悲鳴にも近い声を上げ、老婦人へと駆け寄った。
 おひとりで出歩かれるなんて、心配いたしましたわ、というメイドの声は、さんざん走り回ったせいか、かすれていた。
 精神が不安定な奥方から、目を離さぬようにと、息子である人から命じられていたにもかかわらず、はぐれた故の罪悪感だろう。その顔は、引きつっていた。
 褐色の髪をふりみだし、ぜいぜいと荒い呼吸をするメイドの傍らで、猫が再び、興奮したように高く鳴く。
「何事だ、ハンナ。騒々しい」
 その騒ぎを、聞きつけてだろう。
 屋敷から、金髪の男が出てくる。
 日頃の苦労をしのばせるように、四十前後であろう、その男の眉間には、深い深い皺が刻まれている。
 コンラッド様、名を呼びながら、メイドが困惑したような顔つきで、そちらを振り返った。
「くすくすくす……」
 メイドや息子が駆け寄ってきても、心ここにあらずというように、無反応だった老女が、突然、童女のような無邪気な笑い声を上げ始めた。
 唐突なそれに、メイドの女と金髪の男は、表情を凍てつかせる。
 ははうえ。
 そんな彼らの反応すらも、気にならないように、喪服の女は笑い続けた。
「大丈夫よ、コンラッド。今日はとても気分がいいの」
 それは、黒いドレスの老女が、正気を手放した日から、何年振りか見せた、心底、朗らかな笑みだった。
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