女王の商人

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  八章  宝石と商人 9−2  

 己がまだ王女の身分であった頃、儚く泣いている叔母を、見たことがある。
 たった一人、慰める侍女も、涙をぬぐう者もおらぬまま、はらはらと声も出さずに泣いていた。
 しろい頬を、幾筋もの涙がつたう。
 窓からそそぐ、か細い月光。
 声もあげずに泣く女は、静寂の気配すら纏っていて、天を仰ぐそれは、祈りのようですらあった。


 今は亡きエミーリアの父、先代の国王陛下には、妹が一人いた。
 名を、リーディアという。
 若き時分は、可憐で、鈴を鳴らすか如き美声の持ち主であったという。
 明るく、万事に大らかであった兄王とは、二人きりの仲睦まじい兄妹であったのだと。
 王妹である彼女は、十七歳の時、 許嫁であったレイスティア侯爵クリストファーへと降嫁した。
 親同士が決めた婚姻であったが、リーディアにとって、クリストファーは初恋の君であり、彼の人のもとに嫁ぐ日を熱望していた。故に、その結婚は幸せなものであると、民から祝福されたという。
 王女様、我らの愛らしい王女様、どうか、末永くお幸せに……。
「叔母様……?」
 エミーリアがまだ、八つの齢も数えぬ頃だったろうか。
 国王たる兄に会う為に、叔母はたびたび、王城へとやって来た。
 本来ならば、たとえ王女とはいえど、降嫁した身では、そうそう城を訪問するようなことはない。されど、父と叔母リーディアは、同腹の兄妹であり、また幼少時から大変仲が良かった事から、 特別な配慮が為されていた。
 実際、娘であるエミーリアの目から見ても、父は、同腹の妹を殊の外大事にしていたと思う。
 彼女自身、父王が壮年を過ぎて、遅くに生まれた王女だったが故、大切に大切に育てられたが、それに優るとも劣るまい。
 いや、父だけでなく、叔母は皆に愛された王女だったと思う。
 降嫁する前、王妹殿下と呼ばれていた、娘時代の肖像画を目にしたことがある。
 銀にも近いような淡い金髪と、翠の瞳、紅をひいた口元は、花開く前の蕾のよう。
 子供心にも、印象の残るような美貌の人だった。
「リーディア叔母様……どうかなさったの?」
 王宮の白い柱に片手をついて、幼いエミーリアは、大きなオリーブ色の瞳を見開く。
 宴もたけなわという時に、供の一人もつけずに、急に姿を消した叔母のことが気になり、その背中を追いかけてきたのだ。
 孔雀模様のドレスの裾を、ちょこっと摘まみ、小走りで回廊を駆けた幼い王女は、窓辺に佇む叔母の姿を見て、その場に立ち尽くした。
 叔母様?と口にしかけた声は、喉の奥で消える。
 嗚咽ももらさず、その頬を幾筋もの涙がつたっていた。
 叔母は、リーディアは慰められることを望んでいないように、ひっそりと儚い風情で、静かに涙をこぼしていた。
 王妹であり、現・レイスティア侯爵の妻でもある叔母には、幾人もの侍女がついており、呼べば、ハンカチを手にして駆け寄り、その涙をぬぐってくれるものには、事欠くまい。
 しかし、リーディアはむしろ、慰められ、かしづかれることを厭うように、王宮の片隅、宴の場から離れた窓辺に佇んで、天に輝く月を仰ぎ見ているようだった。
 幼い姪の呼び掛けに、リーディアは、 指で涙の痕をぬぐい、ゆるりと振り返った。
「まあ、エミーリア……迎えに来てくれたの?」
 自分の息子よりも、小さな姪に合わせて膝をかがめ、叔母は柔らかく笑う。
 取り繕うように、浮かべられたそれが、かえって痛々しかった。
 エミーリアは、口ごもった。
 叔母様は、お母様よりも御歳が上なのに、お母様に叱られた時のエミーリアのように、ぽろぽろと涙をこぼしていたから。
 大人の女の人が、そんな風に泣くのを見るのは、その時が最初であったように思う。
 後で思えば、この頃すでに、叔母の精神は、正気と狂気、危うい均衡の上にあったのだろう。でも、静寂の中にある彼の人は、ひどく純粋なものを宿しているようにも見えて、不思議と怖いとは感じなかった。
「叔母様」
 ……後年、女王陛下と呼ばれるようになってからも、エミーリアは、その時の情のない発言を悔いることがあった。
 ものの道理もわからぬ、子供の時とはいえ、罪なことをしたと。
 幼いが故の無知というのは、時に救い難いほどに残酷なものだ。
「どうして、泣いているの?」
 ――叔母様は幸せな人だって、皆が噂していたわ。
 初恋を実らせた、幸福なる王女様だと。だって、叔母様は……愛する人の妻になれたのでしょう?
 お幸せなのではないの?
「それはね……」
 あの時、叔母はなんと答えたのだったか、十年以上もの月日が流れる中で、忘れてしまった。


「……陛下、陛下」
 耳慣れた女官の声で、エミーリアは、はたと我に返った。
 アルゼンタールの君主たる彼女が座すは、黄金の細工が施された、神聖なる玉座だ。
 その手元には、裁可を待つ書類の束と、気に入りの羽扇。
 エミーリアの脇には、彼女の言葉を書き取る為の書記官が、ペンを握りしめたまま、直立不動の体勢で控えている。
 若き女王が面を上げれば、王女時代から己に仕えてくれている女官、ルノア=オルゼットと目が合う。
 いつになく反応の鈍い女王陛下に、訝しげに眉をひそめた初老の女官に、エミーリアはなんでもないのよ、と安心させるように笑みを向けた。
 それならよろしいのですが、と厳めしい顔を崩さずに口にした女官は、
「何か、あたたかいお飲物でも、運ばせて参りましょう」
と、女王陛下の為に、手を叩いて、若い女官を呼んだ。
 経験豊富で、職務に忠実なること、この上ないルノアであるが、その心根はあたたかい。長い付き合いで、その事を知るエミーリアは、「ありがとう、欲しいわ」と親しみを込め、やや気安く応じると、気に入りの羽扇をあおいだ。
 異国の宝石にも似た深い色合い、オリーブのそれが、過去を追想するようにすがめられる。
 ――何故、急に、叔母の、リーディアのことを思い出したのだろうか?
 エミーリアは、もう何年もの間、叔母と言葉を交わすどころか、まともに顔を合わせてすらいないというのに……。
 父王が亡くなる前から、叔母は心の病を患っていた。
 レイスティア侯爵家の屋敷の奥深くに引きこもっては、常に黒いドレスを纏い、メイドたちにも意味のわからぬことを、度々、口走るのだという。
 己が直接、見聞きしたわけではなく、あくまでも噂であるが。
 父王の葬儀の時に、一人息子のコンラッドに付き添われ、姿を現した叔母は、記憶にある美貌の人とは、すっかり、様変わりしていた。
 美しかった金の髪は灰に染まり、痩せて骨の浮き出た姿は、一気に数十も老け込んだようだった。
 息子に手を引かれた叔母は、きょとん、と実の兄が世を去ったのも、よくわからぬような、あどけなくさえ見える無垢な表情をしていた。
 長い時間は、耐えられぬと思ったのだろう。王の葬儀に、見苦しい姿を晒さぬようにと、早々に姿を消した叔母と従兄のコンラッドに、エミーリアは、父を亡くした悲しみに暮れながらも、痛ましさすら感じたものだった。王家においては珍しいほど、本当に、仲の良い兄妹であったのにと。
 (どうして、叔母様はあんな風に、お変わりになってしまったのかしら……?)
 叔母であるリーディアが、心を閉ざしてしまった理由が、エミーリアにはわからなかった。
 初恋の許婚、凛々しいレイスティア侯爵と結ばれた叔母は、若い頃は、年頃の娘ならば誰もが羨む、とても幸せな女性であったのだという。
 それが、どうして、あのように……。
「陛下」
 ぼんやりと過去を振り返るエミーリアに、頃合いを見計らい、女官が声をかけた。
「何かしら?ルノア」
「レイスティア侯爵のご嫡男、コンラッド殿が、陛下との面会を求めておられます……いかがなさいますか?」
 ルノアの言葉に、エミーリアは睫毛を瞬かせ、やや意外そうな声を上げた。
「レイスティア侯爵の嫡男が……めずらしいわね」
 件のレイスティア侯爵家は、エミーリアの叔母、つまり先王の妹の降嫁先であり、彼女の生んだ一人息子、コンラッドは、エミーリアにとっては、従兄にあたる。
 幼い頃は、やや歳の離れた従兄に、よく遊び相手になってもらい、気候の良い日には、乗馬や遠乗りに付き合わせては、授業の予定が狂うと、教育係を嘆かせたものだ。
 昔から、よく気心の知れた相手ではある。
 コンラッド自身は、穏やかで控えめな性格で、女王の従兄という血筋にもかかわらず、エミーリアが即位してからは特に、表舞台に立つような真似は、好まなかった。
 十数年も前から、身体を悪くしているというレイスティア侯爵と、叔母の面倒を看ながら、静かに暮らしている従兄が、王宮を訪ねてくることは、滅多にない。
 先ほどまで、叔母のことを思い出していたので、不思議な偶然を思わずにはいられない。とはいえ、懐かしいことには変わりなく、エミーリアは、優雅に羽扇を振ると、人払いをし、「通してちょうだい」と、傍仕えの女官に命じた。 
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