女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  八章  宝石と商人 9−11  

「ここが……レイスティア侯爵家の屋敷ね」
 御者に手を引かれて、馬車から降りたシアは、碧空の瞳で、天高くそびえ立つ門を仰ぎ見た。
 先代の王妹が降嫁し、アルゼンタール建国以来の名門というだけあって、レイスティア侯爵家の屋敷は、年季の入った柱や石畳が時の流れを感じさせながらも、その荘厳さを、感じ取らずにはいられない。
 しかしながら、先代当主の折に、侯爵家に降りかかった、さる災いが影を落としているのか、立派な屋敷の外観から、何故か陰気なものを感じるのも、また事実であった。
 威厳ある高い門は、冷ややかさをもって、入り来る者を拒んでいるようで、シアはふいに感じた寒気に、ぶるっ、と身を震わせる。
 どうして、そんな風に感じるのか、上手く説明は出来そうになかったけれど。
「なんとか間に合って、良かったな。女王陛下の名代として、いきなり遅刻では、申し訳が立たない」
 黒いマントを風になびかせ、馬車のタラップを下ったアレクシスはそう言いながら、胸を撫で下ろす。
「うん、ありがとうね。お陰で、助かったわ」
 シアは後ろを振り返ると、騎士の青年に、笑顔で礼を言う。
 父親、クラフトとのゴタゴタで、アレクシスを待たせてしまった申し訳なさもあったが、それとは別に、ひとつ、困った問題があった。
 クラフトに扉を開けさせようと、すったもんだ揉めているうちに、乱れてしまったドレスは、侯爵家を訪ねるのには、相応しからぬ有り様になってしまった。
 弱り果てたシアは、時間に余裕がないのを承知の上で、急遽、ハイライン伯爵家に寄らせてもらったのである。
 なぜか屋敷に戻ってきた若様と、急な来訪者であるシアに、従僕のセドリックは、えらく怪訝な顔をしたものだ。
 しかし、そこはそれ、渋い顔をしても、優秀な使用人である彼らしく、大方の事情を察し、伯爵家の衣装部屋に案内してくれた。
 案内の際、眼鏡の縁をくいっと持ち上げ、ドレスを駄目にするなんぞ、流石はじゃじゃ馬娘ですね、と軽く嫌みを言うのも、忘れない。
 そんなわけで、今のシアの着ているドレスやは、ハイライン伯爵家からの借り物だ。
 いや、とシアのドレス姿に目を細めたアレクシスは、わずかに、はにかむように微笑した。
「構わない。着てもらえたなら、きっと母も喜ぶ」
 真紅に黒いレースの縁取りがなされた少女のドレスは、アレクシスの母が娘だった時分に、好んで着ていたものだ。
 鮮やかなそれは、透けるような白い肌をしたシアに、まるで誂えたように、よく似合っている。
 銀髪を黒いリボンのバレッタで纏めて、 紅い貴石のイヤリングをした少女は、常よりも大人びて見えて、オークションに相応しい装いであった。
「……いよいよね」
 何がしかの強い決意を込めたような目をして、再び、レイスティア侯爵家の門を仰いだシアの前髪を、ふいに強く吹いた風が揺らした。
 ザワザワザワ。
 屋敷全体に暗く影を落とすほどに、生い茂った木々が、揺れる。
 空は、先ほどまで青く、晴れやかに見えたが、遠くからは黒い雲が近付いて来ている。
 ――いずれ、一雨、くることであろう。
「シア」
 アレクシスは少女の横に並ぶと、気負いなく、すっと手を差し出した。
「行こう、一緒に」
 青年の唇からこぼれたそれは、考えるまでもなく、ひどく自然な響きを持っていた。
 何者からも、この娘を守ると誓った。 彼女の祖父に、父に、そして友でもある仲間たちに、誰よりもシアを愛する人々に。
 だから、もう恐れることはない。この華奢で、柔らかな手を離さずに、共に歩いていけるはずだ。
「ええ」
 シアは小さく首を縦に振ると、アレクシスの手を握りしめる。
 剣を握る手は、されどあたたかな血潮が通っていて、大丈夫だ安心しろ、そう伝えてくれているようだった。


 鉄製の門の前には、シアたちの乗ってきたもの以外にも、何台もの馬車が停まっていた。
 装飾を尽くした華麗な馬車の中には、紋章入りのものも少なくなく、ぞろぞろと馬車から降りて、屋敷に向かう人々の列の中には、身分ある貴人の使者らしき人物の姿もあった。
 この人たちは皆、レイスティア侯爵家の秘宝、『女神の血』を求めて、ここに来たのだろうか?
 オークションの招待客らしき人々の最後尾に、アレクシスと共に並びながら、シアはそんなことを考えた。
 ぞろぞろと、芝生を踏みならしながら、広々とした庭を通り抜けると、薄い霧に包まれた、レイスティア侯爵家の屋敷が見えた。
 屋敷の前には、目印のようにランタンを掲げた、若いメイドが心細げな顔をして、所在なさげに、そこに立っている。
 白いキャップと紺色のワンピース、きつくお団子にした栗毛、地味に纏められたそれは、時代錯誤なほどに、古風な装いだ。
 落ち着かなげに、きょろきょろしていたメイドは、ぞろぞろと列をなしたオークションの参加者たちの群れに、ホッとしたように、束の間、表情を緩めた。
 しかし、それも、ほんの一時のことで、すぐに、引きつったような、硬い顔つきに戻ると、メイドは裾をつまんで、主家を訪れた客人たちに、深々と礼を取る。
 そうして、緊張を宿しながらも、その声は静謐ささえ感じさせた。
「ようこそ、皆様方。ご多忙の中、我がレイスティア侯爵家にお越し下さいました。当主は、屋敷の中に。わたくしが、皆様をご案内いたします」
 生い茂る木々、昼間なのに、どこか薄暗い中庭を、メイドに案内されて、シア達、オークションの参加者一行は、屋敷へと足を運んだ。
 レイスティア侯爵家の玄関は、大理石と希少な薔薇石や緑柱石を大胆に使用した、権門の名に恥じぬ、華美な造りで、アレクシスの前の背中から、ほぉ……、と感嘆のため息が漏れる。
 財力だけでなく、美や歴史を感じさせる造りであった。
 白い柱には一本、一本、精緻な細工が施されており、水瓶を抱いた乙女の彫像からは、噴水が湧き出ていた。
 玄関の両脇には、侵入者を阻むように、両脇には、羽を生やした精巧なグリフォンの像が、無機質な石の眼で来客たちを見下ろし、威風堂々と鎮座している。
「あ……」
 長身の前の客と客の間から、なんとか顔を出し、玄関を見たシアは、青い瞳を見開いて、小さく声を上げた。
 そこで、思わぬものを、目にしたからだ。
 グリフォンの像の奥に、高々と掲げられた、壁に彫り込まれたレリーフ。
 純潔と乙女の守護獣――一角獣<ユニコーン>。
 建国以来、アルゼンタール王家とも濃い血の繋がりを持つ、レイスティア侯爵家の紋章だ。
 神聖さを示すように、純白の鬣の中から角をのぞかせた、美しい獣は、はめ込まれた紫水晶の瞳を、シアたちに向けている。
 初めて目にするはずのそれに、少女は何故か、懐かしさに似たものを覚える。
 穢れなき乙女を守護する、一角獣<ユニコーン>。
 その紫水晶の輝きを放つ、優雅な姿を、シアは別のもので目にしていた。それは――
 (母さまの……母さまの形見の指輪)
 シアは胸に手をあて、ぎゅう、と指先を握りこんだ。
 記憶の片隅、宝石箱の奥深くに閉じこめていた、亡き母の遺したもの。
 彼女の母、エステルの形見の指輪には、目の前のレリーフと同じ、高貴なる一角獣<ユニコーン>の姿があった。
 怖いほどの偶然だった。
 偶然だ。
 ……本当に?そんなことがあるのだろうか。
 シアはふいに鼓動が速まるのを感じて、震える口元を、手のひらで押さえた。
 叶うなら、指輪のことは忘れたままであって欲しいと、目を潤ませた母の言葉を、思い出す。
『気をつけて、シア』
『どうか、黒いドレスの貴婦人には、近付かないで』
『あの家には、レイスティア侯爵家には、関わっては駄目……』
 パチッ。
 頭の奥で、記憶がはじける音がした。
「シア……どうかしたのか?」
 すぐ前を歩む、少女の異変に気がついたのだろう。
 列の最後尾にいたアレクシスが、訝しげな声を上げて、マントをひるがえしながら、長靴の音を響かせて、足早に近付いてくる。
 わずかに青い顔をしたシアは、これ以上、アレクシスを心配させまいと、弱々しい笑みを浮かべて、「何でもない」と、首を横に振った。
「だが……」
 アレクシスは眉間にしわを寄せて、納得していないような目で、彼女を見つめてくる。
「大丈夫よ」
 シアは気丈に言い張ると、こみ上げてくる違和感を振り払うように、前へと向き直った。
「……そうか」
 騎士の青年は口をつぐむと、小さく首を横に振り、憂い顔で息を吐く。
 先導役のメイドが扉を開けて、オークションの参加者、客人たちを中へと招き入れる。
 列の一番前の、身なりのよい紳士が、吸い込まれるように、扉の内側に消えていくのを見て、シアもその後に続こうとした。

『我が真の主よ、ご帰還のお喜びを申し上げる』

 一角獣<ユニコーン>のレリーフの横を通った瞬間、妙な声が聞こえた気がして、少女は白銀の睫毛を瞬かせる。
 それは、銀の鈴を鳴らすような、凍てつく吹雪のような、美しい旋律を帯びた、何とも言えない声だった。

『お帰り。いとしき我が乙女、レイスティアの名を継ぐ者よ、あなたをずっと待っていた』

 逢いたかったよ、お帰り。エステル。

 シアは呆然と、物言わぬはずの、レリーフの一角獣に魅入る。
 当然ながら、命なきレリーフの獣は喋るはずもなく、ただ透き通る紫水晶の双眸で、彼女を見下ろしているだけだ。
 疲れか、この屋敷を覆う、独特の雰囲気が、そのような幻聴を、聞かせたのだろうか。

 メイドに続いて、屋敷の玄関に入ると、シアは青い瞳をくるくると、興味深げに動かし、高い天井を仰ぎ見た。
 屋敷の内装は外見に違わず、豪奢かつ、洗練された造りで、光が零れる、吹き抜けの天井や、金と淡緑を基調とした壁紙、埃ひとつなく、さながら鏡のように磨き上げられた漆黒の床は、格調高くさえある。
 オークションの客人たちは、皆、揃いも揃って、富裕な資産家か、名家の使用人たちであり、屋敷の豪華さは見慣れているはずだが、その者たちの口からも、ほぉ、と吐息が漏れた。
 まあ、中には興味なさげに、ちらり、と玄関ホールの内装を一瞥し、大したことはないと言いたげに、ふん、とそっぽを向く、ひねくれ者もいたが。
 初めて訪れる客人たちが、豪奢な内装に見入っていると、コツコツという足音が、忙しくなく、ゆるりと近付いてくる。
 靴音に振り返ったシアの目に、柱の影から姿を現した、長身の男が映った。
「皆様、ようこそ。お忙しい中、我がレイスティア侯爵家へ、お越しくださいました。我が父、クリストファー=ロア=レイスティアに代わりまして、わたくし、息子のコンラッドが深く感謝申し上げます」
 朗々と、穏やかな声でそう述べたのは、金髪の男性だった。
 すでに青年という域は、とうに越えているだろう。コンラッドという彼は、そう、若くはない。
 しかしながら、優しげで、穏やかな雰囲気と、気品あふれる物腰は、魅力的であったし、端整な顔立ちは、貴公子という表現が似つかわしかった。
 それもそのはず、先代の王妹を生母に持つコンラッドは、当代のエミーリア女王陛下とは、いとこ同士にあたり、次期、侯爵位のみならず、王位継承権をも保持する、貴種中の貴種というべき存在だ。
 齢を重ね、やや皺のある口元や、少し垂れた目尻が、かえって色気を醸し出し、男盛りという印象を与える。
 気品と華やかさを併せ持ちながら、決して、権高な態度ではなく、穏やかで謙虚な姿勢であった。
 彼はゆったりとした所作で、客人たちを見回すと、にっこり、典雅な微笑を浮かべた。
「本来ならば、私の父、クリストファーが皆様にご挨拶をさせていただくべきところですが、あいにく体調が優れず……失礼をお許しください。当主に代わりまして、ささやかな酒宴を用意させていただきました。どうか、ごゆっくりと、くつろいでいただければと思っております」
 おぉ、と客人たちの間から、喜びの声が上がる一方、落ち着かなげに、そわそわとした者たちもいて、その中から「女神の血は……?」と、ささやくような声音がもれた。
 コンラッドはやわく目を細めると、心得ているという風に、鷹揚にうなずいた。
「ご説明が遅くなりましたが……この度は母の強い希望で、我がレイスティア侯爵家が保持する、由緒正しきルビー『女神の血』を、オークションという形で、皆様方のどなたかに、お譲りすることになっております」
 淀みなく説明するコンラッドのそれに、シアら客人たちはマナー良く、静かに聞き入った。
 ルビーを譲る、そう口にした瞬間だけ、それまで、にこやかだったコンラッドの唇がわずかに歪み、穏やかな双眸には悲しみがよぎる。
 先祖代々、大切に大切に守り抜いてきた至宝、最高のルビー『女神の血』手放すことに、少なからず、葛藤があるのだろう。
 それもこれも、心を壊してしまった彼の母・リーディアの、執念ともいうべき思い故だ。
 (不幸なことだ……母にとっても父にとっても、そして、犠牲者でしかない彼女にとっても……)
 (エステル……君は、いまどこで何を……)
 (もう、何もかも手遅れかもしれないが、それでも……)
 暗い考えが胸を支配しそうになるのを、 コンラッドは年を重ねた男の余裕でごまかし、表面上は朗らかな態度を取り繕った。
 その、わずかな表情の変化に気がついたのは、欲に目がくらんだオークションの客たちではなく、たまたま近くにいたアレクシスのみだった。
 己の恋愛については、鈍感すぎるほどに鈍感ながらも、意外と人の心の機微には聡い、騎士の青年は、コンラッドという当主の代理が、何やらワケありげなことを察したが、初めて会う人物の事情に口を出すはずもなく、ただ控えめに目を伏せた。
 気を取り直したコンラッドは、張りのある声で、客人たちに「屋敷を案内しよう」と、申し出た。
 その時、居並ぶ客人たちを改めて、見回したコンラッドは、 小柄な身体を、柱の影に隠していた、ひとりの少女の存在に目を留める。
 否、本当は客人たちを出迎えた時から、ずっと探していたのだ。
 母の無茶苦茶な要望に困り果て、どうか、『女神の血』を引き取ってもらえまいかと、いとこであるエミーリア女王陛下に、相談を持ち掛けた、あの時から。
 エミーリア陛下本人が来られないことは、最初からわかっていたが、慈悲深いいとこは、代わりの使者をよこすと、王城を訪れた際に、約束してくれた。
 自分が最も信頼している、女王の商人である娘と、その相棒である騎士を行かせるわ、と。
 まだ年若いけれど、信頼できる者たちだと、幼い王女だった頃、とっておきの宝物をいとこに自慢した時と同じように、オリーブの瞳を輝かせて、エミーリアは晴れやかな笑顔を見せた。
 コンラッドの愛する、お転婆で、好奇心旺盛な、ちいさな王女さま。
 成長した彼女は、聡明で、民思いの麗しい女王陛下になった。
 彼の人の人を見る目は、確かだ。
 エミーリア陛下が信頼し、そのお眼鏡に叶った者たちならば、きっと大丈夫であろう。
 無事に女王陛下との約束を果たし、『女神の血』を譲るという、コンラッドの願いを叶えてくれるはずだ。
 女王の名代――エミーリアの言葉によれば、まだ若い娘だという。商人の証である銀貨を首から下げているから、一目見れば、すぐにわかるはずだと。
 コンラッドの瞳は、きりりと引き締まった面立ちの、黒髪の青年の横を通り過ぎ、柱の影にいた銀髪の少女を映す。
 その瞬間、ハッと傍目にもわかるほどに、コンラッドの顔色が変わった。
 目を大きく見開いて、言葉さえ失ったように、シアを凝視する。
 見つめられたシアは、困惑気味に眉間に皺を寄せ、銀の睫毛を震わせた。
 白銀の髪、透けるように白い肌と華奢な体つき、いきいきとした青い瞳、腕利きの人形師が丹誠込めて作り上げたような、いとけない、繊細な美貌の少女……瞳の色こそ、青と薄紫で異なれど、その容貌は、彼のよく知る娘と重なった。
「エステ……」
 その娘は、あまりにも彼女に似すぎていた。
 コンラッドの脳裏に、在りし日の、もう十数年も前の、少女の姿がよぎる。

 ジョキ、ジョキジョキ。
 銀のハサミに、朝の光が、鈍く反射した。
 ハサミを持った白い指先が、迷いなく、己自身へと向けられる。
 長く伸ばされた、美しい銀の髪に、刃が入った。
 無残に切り落とされた銀髪がハラハラと、お世辞にも綺麗とは言えない、古ぼけた床へとこぼれ落ちる。
「エステル……っ!一体、何をしているんだ!」
 部屋の扉を乱暴に開け、息を切らせたコンラッドに、ハサミを手にしたざんばら髪の娘は、ゆるりと、生気を感じられない、虚ろな仕草で振り向く。
 薄紫の瞳は、ガラス玉のように透き通り、同時に根深い闇を抱えていた。
「コンラッドさま……」
 自ら腰まであった髪を、肩につくほどに切り落とした少女に、いまだ肩をいからせたコンラッドは、絶句した。
 艶があり、美しかった銀髪は、乱雑にハサミを入れられ、もはや見る影もない。 突然の母の死に、動揺したにしても、あんまりな暴挙ではあった。
 喪にふくすために、黒いワンピースに身を包んだ、いまだ幼い娘は、ふっ、と幼さを捨てたように、 寂しげに微笑した。
「コンラッドさま……母は、罪人でした」
 子供といっていい年齢にも関わらず、その表情は、鳥肌が立ちそうなほどに、美しい。
「奥方様を不幸にして、だんな様も……」
 少女、エステルはそこまで言うと、かすかな嗚咽をもらし、両手で顔をおおった。
「わたくしが生まれてきたことが既に、過ちだったのです……」
 すすり泣く少女に、若く、無力なコンラッドは、かけるべき言葉を持たなかった。
 エステルは当時、まだ、たったの十三歳だった。けれど、その年齢には重すぎるものを背負って、生きていた。
 否、もうずっと前から、彼女はそんな苦悩を抱えて、生きてきたのだと。

 もっと、少女がずっと幼い頃、コンラッドに駆け寄って来ようとしたことがある。
 よく似た面立ちの母親の胸に抱かれたエステルは、とてとてと覚束ない足取りで、コンラッドに近寄ってこようとした。
「あー」
 同じく子供だったコンラッドは、幼女に向かって、反射的に手を伸ばす。が、その小さな手と手は、互いに触れることはなかった。
 エステルの母が、ふわりと丸みを帯びた娘の頬を、ピシャリと平手打ちにすると、呆然と涙を流すことすら忘れた幼女の体を、地面に伏せさせた。
 そうして、青い顔をした母親もまた体を丸め、震えながら謝罪する。
「若君さま、ご無礼をお許しください。もう、御前に姿を現すことはしませんので、どうか……」
「うわあああああん!」
 震えながら、懸命に頭を下げ続ける、エステルの母。
 呆然と立ち尽くす、コンラッド。
 頬を張られた痛みと、異様な雰囲気に、火がついたように泣き叫ぶ、エステル。
 それが、コンラッドが初めて言葉を交わした、父親の愛人と、その娘の姿だった。

「馬鹿な……」
 エステルが戻ってきたのかと、一瞬、妄想めいた考えを抱いた己を恥じて、コンラッドは額に手をあてた。
 馬鹿な、彼女のはずがない。
 誰にとっても不幸な事故で、エステルがレイスティア侯爵家を飛び出してから、もう十数年、いや、すでに二十年近い時が流れているのだ。
 かつて少女だったエステルであっても、その時のまま、年を重ねていないことはありえない。
 ただ……偶然の一言で片付けるには、眼前の娘はあまりにも、彼女に、エステルに似すぎていた。
 立ち尽くし、顔を強ばらせたコンラッドに、銀髪の少女は、訝しそうに青い瞳を瞬かせる。
 その背後には、ゆったりと腕を組んだ黒髪の青年が、静かな眼差しで控えていた。
「あの、何か……?」
 不思議そうな問いかけに、コンラッドはごくりと唾を呑み込むと、絞り出すような声で言った。
「いや、何でもありません。あなたが……知り合いと、あまりにもよく似ていたもので。ですが、人違いでした」
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