女王の商人

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  八章  宝石と商人 9−5  

 シアらの昼食の誘いを断り、リーブル商会を去ったアレクシスは、一度、己の屋敷に戻ることなく、 その足で、もう一つの目的地へと向かった。
 リーブル商会からほど近い場所にある、一件の宿屋。
 料理上手で気のいい女将が、人を雇って切り盛りしている、庶民的な宿だ。
 部屋も寝台も清潔で、悪くはないが、上宿ではなく、いわゆる、お貴族様が利用するような宿ではない。
 それだけに、傍目にも上物とわかる衣服を着て、物腰も貴公子然とした騎士が訪ねてきたことに、女将は少なからず、面食らったようだった。
 すわ何事かと身構えたものの、思い当たる節は何もなく、またアレクシスも丁寧かつ、穏やかな口調を崩さなかった為、根が人が良い女将は、すぐさま警戒を緩めた。
「オスカー=ライセンス殿に会いに来たのだが、まだこちらの宿に泊まられているだろうか?」
 黒髪の青年の問いかけに、女将は首を捻ると、「オスカーさんかい?」と、問い返した。
「オスカーさんならば、ちょうど今すこし前に、長逗留だった部屋を引き払ったばかりだよ」
 腕利きの行商人であるオスカーは、親友であるクラフトに会いに、またはリーブル商会と商談を結ぶため、よく王都に足を運ぶが、だからといって、長くひとところに留まることは、好まない。
 商売の種があれば、それこそ、地の果てだって出かけていく。
 女将の答えに、アレクシスは「そうか……」と浅くため息をつき、肩を落とした。
 以前、何か困ったことがあれば相談してくれていいと、オスカー殿の定宿を教えてもらったのだが、どうやら、すれ違ってしまったらしい。
 残念だが、諦めるほかなさそうだった。
「今度の仕事は、しばらく、王都には戻ってこないと言っていたよ」
意気消沈したアレクシスに、女将が気の毒がるように、告げる。
「……わかりました。お騒がせして、申し訳なかった」
 あてが外れたことに落胆しながらも、親切な女将に、丁重に礼を言い、アレクシスは宿を去ろうとする。
「あっ、伝言があるなら、次に王都に戻った時に、オスカーさんに伝えとくよ。アレクシスさんが会いたがって、伝えればいいかい?」
 女将が、去りゆくアレクシスの背中に呼び掛けると、その貴公子然とした青年は振り返り、
「ありがとう。お願いします」
と、応じた。
 礼儀正しく、凛とした空気を纏い、隙のない歩みで去っていたアレクシスのマントが、風にひるがえる。
 その凛々しい騎士の後ろ姿を見送り、十五年ばかし前は宿屋の看板娘であった女将は、はぁ、と感心したような、息を吐く。
 きりりとしていて、物腰に気品があって、おまけに美男、色々な意味でうちの若いとは偉い違いだ。
 そういえば……と女将は、思案にふけるように、あごに右手をあてた。
 オスカーも又、信用は深いものの、商人らしい抜け目のなさとは無縁で、何処か育ちの良さを感じさせる人間だった。
 王都に滞在する際の定宿として、此処に泊まるようになってから、八年、女将と知り合ってから十年近くが経つが、出身地や家族の存在すらよくわからない。
 宿の常連客同士で気心の知れた間柄になっても、あるいは酒の席でも専ら聞き役で、あまり己のことは話したがらないのだ。
 温和で誠実、信頼できる好人物であるのは間違いないが、果たして、オスカー=ライセンスというのが本名かすら確かめようがないのである。
 はて、宿の女将と宿泊客という関係とはいえ、もう十年近くも付き合いながら、己はオスカー=ライセンスという、行商人の男のことを、何も知らないのではないか。
 あの騎士とオスカーの関係は?と、首を傾げかけた女将だったが、客の事情の詮索は良くないと、首を左右に振る。
 宿を引き払う時、しばらく戻らないと、オスカーは言い残して言った。
 数ヶ月か半年後か、はたまた一年近くか、予想もつかない。
 わざわざ宿まで訪ねてきた、あの青年には気の毒な話であるが、伝言を伝えるのは、しばらく後になるかもしれない。
「女将さーん!ちょっと、こっちに来てもらえますか?相談があるんですけど」
 考えにふける余裕もなく、厨房で雇っている若いのが、女将を呼び、声を張り上げた。
「はいはい、今すぐ行くよ。ちょっと待っといで」
 女将は負けずに大声で返すと、「ああもう、こうしちゃいられない。忙しい。忙しい」と愚痴りながらも、どこか活き活きとした表情で、厨房へと向かった。


 宿に背を向けたアレクシスは、彼にしては迷いの滲む、どこか定まらぬ足取りで、屋敷への帰途を辿っていた。
 先の見えぬ不安に、いつか己の偽りが白日の元に曝されてしまうのではないかという苦悩に、父が儚くなってからというもの、アレクシスは、長い間、苛まれていた。
 ――王剣の誉れを持つ、ハイライン伯爵家が有する、秘密。
 糾弾する者などいないというのに、いつか責められるのではないかと、心のどこかで怯えている。
 情けなく、女々しいことだ。
 こんな風では、天国におられる父上にも顔向け出来ぬと、アレクシスはうなだれた。
 後を託した息子がこれでは、心配を通り越して、呆れていることだろう。
 もし、この場にディークがいたならば、誰の為に動いてやっていると思っている、しっかりしろと文句を言うはずだ。
 ――己は、真実、王剣ハイラインの名に値しない人間だ。
 病身の父の枕元で、あの告白を聞かされたその日から、その思いはずっと消え去ることなく、騎士の胸にある。
 ふと、在りし日、セドリックと交わした会話が頭をよぎる。
「セドリック……ひとつ聞いてもいいか?」
 妙に改まった口調で切り出した主人に、セドリックは本棚の整理をしていた手を休めると、アレクシスへと向き直った。
 金縁眼鏡の奥の、穏やかな緑の瞳は、揺るがぬ親愛を宿している。
 この幼なじみであり、兄のようでもある従僕の、自分に対する信頼と、見返りを求めぬ忠義に、アレクシスは何度、救われたかわからない。
 いかに言葉を尽くそうとも、与えられ、捧げられたそれに報いる方法を、若き騎士は持ちえなかった。
「もしも、俺がハイライン伯爵家の嫡子でなかったら、真実、それに値しない男だとすれば、それでも、お前はついて来てくれるか?」
 我ながら、愚かな問い掛けだったと思う。
 そんなこと、心で思っていようとも、口に出すようなことではない。
 ただ十五のアレクシスは、怖かったのだ。父を亡くし、シルヴィアが去り、伯爵家の秘密を知れば、セドリックも己に失望するのではないかと、不安を抱いていた。
 セドリックはふ、と口元を緩めると、困ったように微笑む。
 それはアレクシスが見慣れた、誰かを励ましたい時の、セドリックの癖だった。
 彼の従僕は、何でも器用にこなす癖に、大切な誰かに関わることでは、ひどく不器用だ。
「変わりませんよ。ハイラインの証があろうとも、なかろうとも、私にとって若様は若様ですから」
 あぁ、セドリック。お前は、やっぱり、優しい男だな。



 声が聞こえた気がした。
 ――オスカー。
 そう、己の名を呼ぶ声が。
 生真面目な彼は口下手で、低い声は、不機嫌さと受け止められることが多かった。実際は、寡黙でも、情に厚い男だったのだけど。
 船着き場。
 波が打ち寄せては返し、打ち寄せては返す。遠く、出航していく船の影が見えた。
 潮風が男の髪や襟を乱し、年季の入った革の鞄を片手に、桟橋を歩いていたオスカー=ライセンスは目線を上げ、海鳥の鳴き声と羽音に耳を傾けた。

「オスカー、こんなところに居たのか?」
「カーティス」

 幼い少年だった時分、義務として押し付けられた、好きでもない剣の稽古を嫌がって、書庫に隠れたオスカーを探し、迎えに来るのは、カーティスの役目だった。
 面立ちこそ、よく似通っているのに、気性は正反対で、よき貴族の規範にならんとする父母の教えを、忠実に守ろうとするカーティスに比べて、オスカーはそんな両親に、気の利かぬ反抗ばかりをしていた。
「書庫に隠れてる、って父上に言いつける?カーティス」
 カーティスは首を傾げ、意外そうな顔をする。
「言いつけて欲しいのか?」
「……ううん」
 幼い子供だったオスカーは、小難しい本を腕に抱くと、先祖代々、受け継いできた書棚に背を預け、その場に座り込んだ。
 カーティスは肩をすくめると、稽古ように刃を潰した剣の鞘を、書庫の隅に立てかけて、 オスカーの隣に腰を下ろす。
 幼い少年たちは、夕餉の時間だとメイドが探しに来るまで、息をひそめて、じっとしていた。
「オスカー、どこに行くんだ?」
「待て、父上が守りたかったものは、きっと……」
「戻ってこい、オスカー!」
 あれから、何十年の時が過ぎ去ったというのに、ふいに少年の頃に戻ったような気持ちになって、オスカーは目を伏せた。
 自分も、もう既に中年と呼ばれる時期に入ろうとしているのに、記憶の中のカーティスは、少年であり青年であり、いつまでも若いままだ。いや、彼の時間は、最早、永遠に止まってしまった。
 昔日のように、隣にあることは、二度と叶わない。
 ――私は。
 複雑な思いと未練を抱えながら、オスカーは、グランネーラ行きの船に乗った。
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