女王の商人
八章 宝石と商人 9−7
あれから、三日が過ぎても、シアの機嫌一向に直らず、父娘の喧嘩は続行中だった。
仕事上、必要な会話はきちんとするし、決して親子の私情を商会に持ち込むような、愚かな公私混同はしないものの、それ以外では言葉を交わず、ろくに目を合わせようともしない。
家に居てすら、どこか他人のようによそよそしく、避けているかのようだ。
普段、仲の良い父娘だけに、メイド三人娘など微妙な空気を感じ取っているようだが、だからといって、勝手に首を突っ込んでくるような、差し出がましい真似はしない。けれども、主人とお嬢さまの間にただよう緊張感を察し、気を使わせているようにも、また困惑させているようにも思える。
……その件については、父親との喧嘩に、他の身内を巻き込むつもりがなかったシアも、申し訳ないと思っているのだ。
一方、父であるクラフトは表面上は、普段と変わらぬ飄々とした笑顔で、商会の長としての仕事に没頭することで、一人娘と真正面から対決することを回避しているようだった。
あるいは、先の問題を努めて何もなかったようにしようとしているようにも、娘の目には映る。
いずれにせよ、身内の、誰よりも大切な愛娘の問題にまともに向き合うこともせず、都合の悪いことを先送りしようとするようなそれは、おそらく誰に聞いても、行動を旨とするリーブル商会の長らしからぬことだ。
一人の父親としても然り、である。
常日頃、亡き妻の忘れ形見である娘を溺愛し、隠しきれない腹黒さと、行き過ぎたお茶目さがたたって、シアから狸親父と謗られるクラフト。
そんな息子と孫の異変に気付いて、最初に口を出したのは、アルトたち三つ子やメイド三人娘ではなくて、 エドワード=リーブル、その人であった。
「よぉ、シア。今日もお疲れさん、寝るとこか?」
夜。
純白のネグリジェに着替え、右手にホットミルク、左手に商法の本を抱え、階段を上がって自室に戻ろうとするシアに、エドワードはそう声をかけた。
祖父の渋い声に反応し、母譲りの絹糸のような銀髪が流れ、勝ち気そうな青い瞳が、エドワードを見据える。
夜だというのに、その青い瞳は力強く、いつものように輝いている。
儚げで、触れれば壊れそうな美貌とは、些か不釣り合いですらあった。
そんな勝ち気そうな愛娘の横顔に、エドワードは我知らず、相好を崩した。
瞳の色以外、容姿は母親と鏡に映したようなシアであるが、その性格はといえば、生母であるエステルとはあまり似ていない。
踏まれても、踏まれても、立ち上がる精神、困難にも負けない心根はともかく、その勝ち気さは、飄々とした努力家である息子のクラフトとも、やや異なる。
己に似たわけでもない、とエドワードは思う。
あえていうなら、己の妻、シアの祖母・ルナに似たのだろう。
若い頃、王家の覚えもめでたい商家の娘に生まれたルナは、 引く手あまたであったにも関わらず、若く、文無しで、杖をついたエドワードの手を取った。
誰からみても、馬鹿げた決断で、愚かな娘と実家から勘当されても、彼女は愚痴ひとつこぼさなかった。
そばかすのういた愛嬌のある顔、エメラルドの瞳を輝かせ、「さあ、これからよ!皆をあっと驚かせてやりましょう、エドワード!」と、豪快に笑ったルナは、エドワードにとっては、どんな女よりも美しく、今でも己には過ぎた女だったと思っている。
励まし、時に叱咤しながら、妻に先立たれるまで、連れ合いと歩んだ三十数年、 エドワードは幸せだったし、クラフトやシア、彼女の遺した者たちを守って、これからも幸せだと胸を張って言える。
愛情深く、芯が強い。
そんなルナの気性を、孫娘のシアはよく受け継いでいる。だからこそ、誰よりも幸せであって欲しいと願うのは、身内の贔屓目だけではないだろう。
さりげなさを装いつつ、エドワードはシアに尋ねる。
「クラフトの奴と何かあったのか?ここ数日、妙にぎこちないじゃねぇか」
祖父の指摘に、シアは肩をすくめ、居心地悪そうにもぞっと身を捻った。
「……祖父さん、気付いていたの?」
ぼそぼそと答える孫娘に、エドワードは「おう、ともさ」と、迷いなくうなずく。
「お腹真っ黒ーけっけーな息子と、可愛い孫娘のことだぜ。気付かないでか」
年甲斐もなく片目をつぶり、にやっと口角を上げ、「……んで、何が原因だよ。クラフトの野郎とおめぇさんのことだ、どうせ大したことじゃねぇんだろう?」と、先を促す。
「知らない。だって、意味がわからないもの」
シアはきゅっと眉根を寄せると、ふるふると首を横に振った。
揉め事の原因を、大したことじゃないだろうと言われて、シアは唇を尖らせた。
原因も何も、どうして、父があんな風に突然、頑なになり、シアが女王陛下のお役目を果たすのを嫌がるのか、彼女にはさっぱりわからないのだ。
普段のクラフトならば、あのようにろくに娘の言い分も聞かずに、頭ごなしに否定することはない。
喧嘩、という言葉もピンとこない。
彼女は怒っているわけではなく、父の意図を、計りかねているだけだ。
シアは「はあ……」と大きく息を吐いて、先日の出来事を、祖父に説明する。
「なるほどな……」
孫娘の口から、王城での会話を聞いて、エドワードは納得した顔をみせた。
シアにはわからないだろうが、彼には、クラフトが動揺し、頑なになったであろう理由がよくわかる。
何かを察したらしい祖父に、シアは「へ……?」と、驚いたように、 目をパチクリとさせた。
「まさか……理由がわかるの?祖父さん。父さんは、何も言ってくれなかったのに」
「ああ。まぁ、大方のところはな」
エドワードは頷くと、ひらっとシアに片手を振って、階下に降りていった。
「まあ、クラフトのことは任せておけよ。わりぃようにはしねぇから」
孫娘にそう宣言したエドワードは、リーブル商会の長の部屋へと足を運んだ。
息子にその地位を譲るまでは、彼が使っていた執務室だ。
夜も更けているというのに、閉ざされた扉の隙間からは、微かな灯りが漏れていた。
国を代表する商会の長ともなれば、責任の重さは言うまでもなく、その仕事には切れ間がない。
時にふざけた言動で、飄々と振る舞う優男ながら、根は商会第一でクソ真面目なクラフトのことだ。
部下が寝静まった後も、長でなければ判断できない書類と、えんえん向き合っているに違いない。と、今は楽隠居の身分である先代は、そう当たりをつけた。
かって知ったる息子の部屋、ノックする手間も惜しんで、むんずとノブを掴むと、エドワードは扉を開け、一歩、内側へと入った。
「よぉ、邪魔するぜ。クラフト」
案の定、クラフトは書類の積み上がった机に向かい、ペン先をインク壺に浸しているところだった。
如何にも仕事中にもかかわらず、エドワードは気にかける素振りもなく、ずかずかと歩み寄ってくる。
相変わらず、遠慮のない父親に、クラフトはくしゃりと亜麻色の髪をかき乱しながら、「父さん……」と苦笑した。
その柔和な笑みは、己にも妻にもなかったもので、はて、この愚息は一体、誰に似たのだろうかと、エドワードは不思議に思う。
つかつかと机に歩み寄ると、彼はちらりと息子の顔を一瞥して、探りを入れるなどまどろっこしいことをせず、ズバリ核心に切り込んだ。
「シアから聞いたぞ。何だか沈んでるじゃねぇか、クラフトよ。見たくなかった過去の亡霊でも見たか?」
暗喩めいた父親の言葉に、クラフトは苦笑を深めた。
「いっそ、形なき亡霊ならば、良かったですよ。まさか、エステルが居なくなって十年もたった今更……あの娘は、シアは何も知らないんですよ。己にまつわることを、何一つとして」
思わず、愚痴に走りかけたクラフトのそれに、エドワードは子に向ける愛情深い目をして、されど、それ故にぴしゃりと言ってのける。
「気持ちはわからないでもねぇが、最後に決めるのは、俺でもおめぇでもない。シア自身だ」
耳に痛い台詞に、クラフトの顔が、そうとわかるほどに歪む。
痛みを、古傷が疼くのを耐えるような表情だった。
我が子を真綿でくるみ、冷たい風にさらさぬだけが、真実の愛ではない。辛くても怖くても、その繋いだ手を離さねば、得られぬものが必ずある。なればこそ。
この不器用な父と娘を繋ぐのは、己しかおるまい。
エドワードは普段の不良老人ぶりが嘘のように、神妙な顔つきで、ゆっくりと、諭すように続けた。
「俺も人の親だ。おめぇの気持ちもわかる。おめぇがどんなに娘を大事にしてきたか、よく知っているよ。でもな、」
そこで言葉を切り、エドワードは一度、唇を閉ざすと、己自身に言い聞かせるように言った。
「決めるのは、俺らじゃねぇ、アイツ、シアなんだよ」
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