女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  八章  宝石と商人 9−8  

 クラフトがシアの母、亡き妻エステルと出会ったのは、彼がまだ二十そこそこの時だ。
 当時の彼は、気楽な跡取り息子という立場で、極楽とんぼ、羽の生えた蝶々のように憂いなく、あちらこちらを飛び回っていた。
 父、エドワード譲りの端正な面立ち、母譲りのスマートな物腰と相まって、女性には不自由しなかった。見栄ではなしに、モテまくっていたと言ってもいい。深く付き合うと、シア曰く、生来の腹黒さを見抜かれる羽目にもなるのだが……まあ、年頃の娘には内緒で、いろいろと愉しい思いもさせてもらった。
 それはそれとして、当時のクラフトは次期商会の長として、国内各地を渡り歩いていた、主に二人の相棒と一緒に。
 一人は、長年の友人である、カイル=リスティン。後にシルヴィアの夫となる人物だ。
 もう一人は、オスカー=ライセンス。商人見習いとして働いていたところを、クラフトが気に入り、ああだこうだと頑固な抵抗にも負けず、無理やり仲間に引き入れた。
 人を惹きつける明るさと、よく回る舌、飄々とした態度で人を煙に巻くクラフトと、寡黙で、真面目すぎるほどに真面目なカイル、そして、お人よしで苦労性のオスカーの三人は、性格が全く異なるにも関わらず、何故かウマがあった。
 誰が呼んだか、お騒がせ三人衆。
 主にクラフトが、唐突な思いつきで暴走し、血相を変えたオスカーが慌てて止めに入り、カイルが思考に耽るフリをして、その実、何も考えていないというお決まりのパターンがあったのだが、それはそれで男三人で思いっきり馬鹿をやり、時には夜通し酒を飲んで、酔い潰れ、楽しい日々だった。
 そんな変りばえのない、だけど、退屈しない毎日を過ごしていた時だった。クラフトが彼女に、生涯、ただ一人の女となるエステルに出逢ったのは――。
 十七、いや、十八年前のあの日……確か、しとしと小雨が降っていた。
 灰色に曇った空。
 窓に打ち付ける雨粒。
 父親に言われた書類仕事を片付けたクラフトは、淹れたてのコーヒーをすすり、ぼぅ……、と窓の外を眺めていた。
 その時、窓の外で何かふらふらと、白いものが横切る。
 若きクラフトは瞠目し、しばし、目を凝らした。真っ白で、ふらふらとした危うい動き……雨に打たれるそれは、遠目には、シーツのお化けみたいに見えた。妙な例えだが、それ以外の表現が思いつかない。
 ぽかんと口を開けたまま、まじまじとそれを凝視したクラフトだったが、ふつふつと持ち前の好奇心が頭をもたげ、ふんふんと機嫌よさげに、扉の方へと向かう。
 出て行こうとする彼を、たまたま一緒にいたカイルが呼び止めた。
「雨が降っているのに、傘も持たずに散歩か?クラフト……物好きだな」
 寡黙なカイルが自ら、唇を開くのは珍しい。
 クラフトは何故だが、妙にわくわくとした気分で、口角を上げた。
「んー。ちょっとね……外に、気になるものを見つけたから」
 いつもの如く、へらりと笑い、軽口を叩きながら、扉を開けたクラフトは、思わず、ぎょっと目を見張った。
 道端で雨に打たれていたのは、白いドレスを着た若い娘だった。
 せいぜい十代半ばといったところだろうか。華奢で、肉付きが薄いせいか、幼く見える。
 雨に打たれ、背に流されるままになった白銀の髪、青白く透けるような肌、こちらを見つめるスミレ色の瞳。
 人間臭さというものを捨てたような、触れれば壊れてしまいそうな、繊細な美貌の持ち主だった。
 しかし、クラフトが目を疑ったのは、そこではなかった。
 彼女の白いドレスの胸の辺りは、真っ赤な血に染まっていたのだ。
 普段のクラフトならば、怪我を負っているのかと、迷わず、駆け寄るところであったが、その時、彼は何故か少しも動けなかった。
 白い服の少女と、真正面から見つめ合ったまま、呆然と立ち尽くす。
 感情を殺したような、虚ろな目をした彼女が、他者を拒むような雰囲気を漂わせていたからだろうか。それは、拒絶に近いほど、強く、はっきりしたものだった。
 クラフトが彼女に歩み寄ることも、声を掛けることすら出来ずにいると、少女の青ざめた唇が震える。
「……消えてしまいたい」
 儚く、本当に消え入ってしまいそうなそれに、亜麻色の髪の青年は、耳を疑う。
 その時、ふら、と折れそうに細い身体が傾いだ。
 ゆっくりと地面に崩れ落ちそうになる彼女に、クラフトは慌てて、支えの手を伸ばす。
 彼が受け止めた身体は熱がなく、冷え切っており、あるべき生気を感じられないほどに軽かった。
 クラフトが気絶した少女を抱き上げ、商会の建物の中へと連れて戻ると、扉の側を振り返った商人たちはいっせいに怪訝な顔をし、ついで、滅多にない光景に騒ぎ立てた。
 跡取り息子が、顔色を変えて、抱きかかえるように連れてきた彼女が、稀に見る美女であったことも、少なからず、影響があっただろう。
 零れ落ちる銀の髪、陶器よりも白い肌、瞼を縁取る長い睫毛、全てがいっそ人形のような繊細な美貌である。
 しかしながら、気を失った少女を抱きかかえたクラフトに、 その端整な容姿を、悠長に観察するような余裕があるはずもなかった。
 雨に濡れて、冷え切ったドレスが、娘の身体から更に熱を奪っているのだとわかっても、まさか年頃の娘の衣服に、若い男であるクラフトが触れることなど出来ず、彼にしては珍しく、右往左往とした様子で、助けを求めるように、周りの商会の仲間たちを見回した。
 男、男、右を向いても、左を向いても、商人や事務方の男ばかり!
 自分も含め、役に立たないと、クラフトは心中、舌打ちをする。
 途方に暮れた彼を見かねて、年嵩の商人が気を利かせ、食堂のご婦人を呼びに、見習いを走らせ、ようやく、その場は収まりがついた。

「よぉ、聞いたぜ、我が息子……なんでも随分と別嬪な子猫を拾ったそうじゃねぇか」
 獅子の頭を模した杖をついた伊達男、少々、歳は食っているものの、文句なしの色男にして、天下の大商人であるエドワード=リーブルは、 慣れた軽口を叩きながら、跡取り息子へと歩み寄る。
「あぁ……父さん」
 濡れたシャツを着替え、こざっぱりした服装に着替えたクラフトは、先程よりはだいぶ落ち着いた表情をしていた。
 寝台の横に置かれた椅子から、立ち上がろうとしたクラフトを、エドワードはそれには及ばないと、目で制す。
 どちらかといえば甘い容姿のエドワードだが、その緑眼は歴戦の商人らしい、鋭いものを感じさせた。 リーブル商会の当代の長であり、クラフトの父でもある男は、ゆっくりと勿体ぶった口調で言った。
「サマンサに聞いたぞ……そこで眠っている別嬪さん、何やら、厄介な事情持ちみたいじゃねぇか」
「ええ……そのようですね」
 クラフトはちらりと後ろの寝台を振り返り、そこで眠る銀髪の娘が、いまだ目覚めていないことを確認すると、首を縦に振る。
 サマンサというのは、食堂で働く婦人の名だ。
 親切にも、雨を吸った少女のドレスを脱がせ、寝衣に着がえさせた時、胸にこびりついた血の痕を目にしたに違いない。
 エドワードが言う厄介な事情とは、十中八九、そのことだろう。
 息の合った父子らしく、クラフトは父の言いたいことを、直ぐに理解した。
 エドワードは元来、義理堅く、情の厚い男だ。
 雨に打たれるがまま、行き倒れのようになっていた若い娘には、進んで助けの手を伸ばすだろう。だが、しかし、助けた娘が犯罪に関わっているかもしれぬと思えば、二の足を踏むのは、ある意味、当然のことだった。
 自分の、ではなく、他人の血のついたドレスを着た少女など、誰しもすきや好んで関わりたいとは、思うまい。
 ましてや、エドワード=リーブルには、 リーブル商会を率いる長としての責務がある。弱った娘へ同情し、憂い顔をした息子に、釘をさすのも無理もない。
 危ういことに手を出すな、という父の無言の忠告は、クラフトの胸に染みた。
 父の言いたいことは、よくわかる。
 娘が意識を取り戻し、具合が良くなったならば、余計なことは聞かず、すみやかに離れてもらうべきなのだと。
 しかし、手持ち無沙汰に、長い足を組み直したクラフトは、その結論に、己が心底から納得していないことを、認めざるを得なかった。
「父さん……」
 彼が父に呼び掛けた時だった。
 シーツに投げられた娘の手がぴくり、と動き、その目覚めを教えたのは。
それを目にしたクラフトとエドワードの父子は、瞬間、顔を見合わせ、揃って寝台へと歩み寄った。 「ん、ぅ……」
 繊細な銀の睫毛を震わせ、少女はゆっくりと、緩慢な動きで瞼を上げる。
 スミレ色のそれが、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「っ、う、此処は……?」
 頭痛がするのか、頭を押さえて、形の良い眉をひそめながら、少女は重たげに身を起こす。
 気怠げながらも、意識ははっきりしている様子に、クラフトは少しばかり安堵して、目覚めたばかりの彼女を驚かさぬよう、努めて、穏やかな声で話しかけた。
「気がついた?大丈夫、気分は悪くない?」
「……はい」
 未だ、ぼんやりとした表情で、娘は蚊のなくようなか細い声で答えた。
 自分が何故、見知らぬ部屋の寝台に寝かされているのかも、目の前にいる亜麻色の髪の青年が誰なのかも謎なのだろう。
  彼女は当惑したそれで、小首を傾げると、
「あの、あなたはどなたですか……?私は、どうして此処に……?」
と、クラフトに尋ねる。
 クラフトは「あぁ、」と親しみのもてる微笑を浮かべると、 困惑を隠せない娘に、丁寧に説明してやる。
「ここは、リーブル商会、その客室さ。僕は、クラフト=リーブル。こっちは、僕の父親」
「おぅ、エドワードだ。よろしくな、別嬪なお嬢さん」
 クラフトの説明に、エドワードはにかっと人懐っこく笑う。
「ええ、クラフトさんと……エドワードさん……」
 銀髪の娘は、状況を把握するように、眼前に立つ男の名を繰り返した。
 ついで痛むこめかみを押さえながら、「あの……」と、遠慮がちに切り出す。
「わたしは……私は、どうして此処に……?」
 己がどうして、見知らぬ寝台に、ドレスから寝衣まで着せ替えられて此処にいるのか、何も覚えていない様子の彼女に、クラフトは痛ましげな、エドワードは困り顔をする。
 心細そうにシーツを握った手を震わせた少女の心情を思い、クラフトは優しく尋ねる。
「どうして、此処にいるのか、何も覚えていないのかな?」
「……はい」
 うなずき、うつむいた少女のそれには哀切な響きがあった。
「君は、リーブル商会の前で倒れたんだよ。それで、勝手に悪いとは思ったんだけど、食堂の女性に頼んで、着替えさせてもらったんだ……その、雨で濡れていたから」
 さすがに、ドレスの胸についていた血のことは言えず、クラフトは言葉をにごした。
 しかし、娘はそのことにまで思い至らないようで、そうでしたか……、と神妙な顔つきでうなだれた。
「ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい。助けてくださって、ありがとうございます」
申し訳なさで縮こまり、意気消沈した娘に、エドワードは気にするな、と明るく笑った。
「そんなに気にすんな、お嬢さん。目が覚めてよかったよ……それで、お嬢さんの名前はなんていうんだ?」
 何気ない問い掛けに、銀髪の少女は急に顔を強ばらせ、名を明かすことを拒むように、かぶりを振った。
「エステル……ごめんなさい、それ以上は言いたくありません」
 突然、頑なになった彼女に、エドワードはため息をついて、言葉を重ねる。
「まあ、家名を言いたくないなら、別にいいさ……じゃあ、お嬢さん、エステルさんはどこから来たんだ?」
「……」
「家出少女か、面倒ごとはごめんなんだけどな」
「……ごめんなさい」
 今にも消え入りそうな表情で、それでも、意志を曲げようとしない娘に、エドワードは「仕方ねぇな」と、とうとう根負けした。
「エステルさん、あんた見た目によらず、頑固者みてえだな……わかった。事情は聞かねえから、具合が良くなるまで、此処にいたらどうだ?」
「父さん……!」
思いもよらないエドワードの言に、クラフトは椅子を蹴らんばかりの勢いで、立ち上がる。
「グダグダ、くだんねぇ文句を言うんじゃねぇぞ、クラフト。俺が決めたことだ、俺が責任持つ」
「わかりました。父さんが、そうまでおっしゃるなら」
 反発しかけた息子を、父はピシャリと貫禄で制した。
「あの……」
 その時、人形のように押し黙っていた娘が、控え目に口を開く。
「ん、何だ?お嬢さん」
 向き直ったエドワードに、娘は意を決したように、ひどく真剣な面持ちで懇願する。
「エドワードさん、クラフトさん、お願いです……此処で働かせていただけないでしょうか?掃除でも、何でもします。勿論、給金なんかいりません。片隅にでも、置いていただけるだけで十分です」
 良家の子女のような所作、重いものを持ったこともなさそうな綺麗な手をした娘が、どうか働かせてください、と、すがるように言う姿には、並々ならぬ覚悟が感じられた。
 その必死さが、伝わったのだろう。
 長い沈黙のあと、エドワードが折れた。
「わかった。ただし、俺も商人の端くれだ。ただ働きなんてさせられねぇよ。やるなら、小間使いとして、ちゃんと雇う」
「そんな、父さん……!」
 めずらしくも狼狽するクラフトの前に、父はピシッと指を突きつけた。
「聞いてたろ?クラフト……ここで助けたのも、なんかの縁だ。このお嬢さんが不自由しないよう、お前が面倒みてやれ」
 勝手な父親のそれに、唇をとがらせかけた息子は、捨てられた子犬のような眼差しで、己を見上げてくる銀髪の少女に、文句を言いかけたそれを閉ざした。
「ごめんなさい、クラフトさん……こんな素性も知れない女をおくなんて、迷惑ですよね」
 喋りながら、彼女はこみ上げてくるものがあったのか、スミレ色の瞳を潤ませた。
 やーい、やーい、泣かした!お前のせいだ、と耳元で、まるで、悪ガキのようにはやしたててくる父親が癪で、クラフトは「わかりましたよ。雇いましょう」と、半ばヤケ気味に言う。
 もう、どうにでもなれ!という心境だった。
 その言葉を聞いた途端、美しいが、何をしても反応が薄かった娘が、パッと花が咲くように笑った。
「本当ですか、ありがとうございます」
 人形めいた美貌で、喜怒哀楽が薄いように見えたのに、その笑顔はハッと目を奪われるほど可愛らしくて、女性には不自由しないはずのクラフトも、しばし見惚れた。
 いつまでも、その笑みを見ていたくて、つい世迷い言を呟いてしまう。
「もう一度、笑ってくれるかな」
「……はい?」
 彼女、エステルは不思議そうに、繰り返す。
 上目遣いは、残念ながら逆効果だ。
 照れ臭いのと、今のをなかったことにしたくて、クラフトはわざとらしい咳払いをした。
 そんな彼の心境を見通したように、エドワードはうししっと嫌らしく笑いながら、「よく言うぜ。本当は嬉しい癖によう」とうそぶく。
「父さん……っ!」
 ムキになりかけた息子を、エドワードは軽く手を振って、あしらう。
 思えば、この時のクラフトは、まだ若かった。
「あの……」
 伝説の大商人と、優秀で知られるその跡取り息子とは思えない大人げなさで、ぎゃいぎゃいと騒ぎ始めた父子に、当事者であるはずのエステルは、やっぱり困ったような顔をしていた。

 そうして、彼女、エステルはリーブル商会に身を置くことになった。
 不自由がないように面倒をみろ、と父親から命令されたものの、実際、クラフトがすべきことは殆どなかった。
 良家の令嬢のようななりをしたエステルに、小間使いのような仕事がきちんと勤まるのかどうか、父子共に一抹の不安があったが、意外にも、娘はよく働いて、愚痴や不満を一切、口にしなかった。
 儚げな美貌と、感情 をあまり表に出さない気質も手伝って、 どこか近寄りがたい空気を漂わせていた娘だったが、真面目で控え目な性格がわかると、好感を持つ者も増えて、商会に味方も出来たようだった。
 それには、跡取り息子であるクラフトが事あるごとに話し掛けていたのも、大きかっただろう。
「クラフトさんたら、貴男って方は、どうしていつも無茶ばかりするんですか……」
「ごめん、ごめんよ。エステル、つい……」
 主にクラフトが周りが考えもつかないような破天荒な真似をして、生真面目なエステルに小言を言われるのが、常であった。そして、そんな関係がお互いに居心地よくもあったのだ。
 クラフトの親友であるカイルは、陰日向なく働くエステルに恋心に似た淡い想いを抱きつつも、彼女の瞳が見つめる先を、己の本当の気持ちには鈍感な友を思い、自分の気持ちにそっと蓋をする。
 そうして、穏やかな眼差しで見守った。
 身内であるエドワードを除けば、カイルがもっとも早く、ふたりの関係を予期した人物かもしれない。
 父親がつくり上げた大商会を継ぐべく、 多忙な日々を過ごすクラフトだったが、 束の間、エステルと過ごす時は、己が背負うものの重さも忘れて、ただの快活な青年に戻ることが出来た。
 エステルもまた名乗ることのできない姓や、暗い過去を捨て去ったように、クラフトの前でだけは、ありのままの自分であれた。
 お互いが大切で、大切すぎて手を伸ばせずにいたのを変えたのは、ひどく些細な出来事だ。
 商談に赴いた場所で、ちょっとした無理がたたって、ほんの数日であったものの、クラフトは行方知れずになったことがあった。
 跡取り息子の失踪に、当然ながら周りは気が気でなく、ひどく心配していたのだが……当の本人は、あっさりと元気な姿で戻ってきた。
「やあ、今、戻ったよ。心配をかけたね」
 飄々とした空気を纏い、けろっとした様子のクラフトは、周囲の仲間たちはやれ人騒がせだの、坊ちゃんらしいだの、安心半分、呆れ半分の目を向けたが、ひっそりと部屋の片隅にいた銀髪の少女だけは違った。
 彼女はわなわなと拳を震わせると、普段の穏やかさを捨てたように、ずんずんと足早にクラフトに近付くと、真っ赤な顔で怒鳴りつけた。
「貴男ってひとは、どこまで人に心配をかければ気がすむのですか……っ!」
 普段、声を立てて笑うことすらないエステルのそれに、怒鳴られたクラフトは、驚きのあまり、ぽかんと口をあけた。
 いつも儚げで、控え目に微笑んでいる彼女が、腰に手をあて、顔を真っ赤にしている。自分を心配してくれたからこそと思うと、男の胸にはじわりとあたたかいものが広がった。
 思わず、ぽろりと本音が口をついた。
「そんな顔も出来るんだ。驚いた」
「……っ。私は真面目に言っているんですよ!」
「うん、知っているよ。そんな風に、怒った顔もいいけど、笑った顔がみたいな」
 クラフトは優しく笑うと、真っ赤な顔をしたエステルに、そっと手を伸ばした。
「笑って、エステル……君の笑った顔がみたいんだ」
 ――どうか、笑って。願わくば、僕のそばで、幸せに笑い続けていて。
 直球すぎるそれに、エステルは白い頬をますます赤くして、絶句した。
 かくして、その後も大小さまざまな困難を乗り越えて、シアの両親は結ばれることとなる。
 残念ながら、エステルはシアが幼い頃に 天に召されてしまったが、その結婚生活は幸せなものであった。

「早いものだね、エステル……君と出逢ったあの日から、もう二十年近くになるんだ……つい、昨日のことのような気がするのにね」
 亡き妻の肖像画に向かって、クラフトは愛おしげに目を細めて、まるで生者に対するように話し掛けた。
「シアがもう十六だなんて、到底、信じられないよ。早いよね、本当に……赤ん坊だったあの娘が、僕の言うことに逆らってでも、自分の意志で歩き出そうとしているんだから」
 母であるエステルが蓋をしたはずの過去に近付こうとするシアに、不安を覚えぬと言ったら、嘘になる。けれど、エドワードが言った通り、最後に決めるのは、父親である男ではなく、シア自身なのだ。
 我が子の成長が嬉しくもあり、また切なくもあり、その真っ直ぐな心根が不安でもあった。
「君は、いつかこうなることがわかっていたのかい?エステル」
 亡き妻の肖像画はただ、生前と同じ柔らかな微笑みを浮かべるだけで、何も答えてはくれなかった。
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