女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  八章  宝石と商人 9−9    

 王都ベルカルンにある、ハイライン伯爵家の別邸は派手ではないが、風格のある造りをしている。
 質実剛健で知られる家風ゆえか、家具や美術品の類に関しても、貴族の屋敷にしては飾り気がなく、暖かみのあるものが多い。
 三代前の強面で知られた当主が、幼い新妻が少しでも心安らかに過ごせるようにと、心を砕いた薔薇色のカーテン。
 あるいは、その若い奥方が、不器用だが心優しい夫の為にと、のどかな領地の風景を描いた絵画など、ささやかなエピソードが詰まった品々が、大仰ではなく、かといって、忘れ去られることもなく、長い歳月、大事にされている。
 ハイライン伯爵家の人々が、彼らに仕える使用人たちも含めて皆、その価値を疑うことがなかったためだろう。
 伯爵家の身内でもなく、アレクシスのただの仕事仲間であるはずのシアが、何故そんな家にまつわるエピソードを知っているかといえば、従僕のセドリックが銀食器を丁寧に磨きながら、さも誇らしげに語ったためだ。
 思い出が詰まったひとつひとつの品に触れる時、従僕の眼鏡の奥の深緑の瞳は、 まろやかな午後の日差し、金の粒ととけあって、いとおしむような、優しい色を帯びている。
 そんな屋敷の空気が、シアも好きだった。
 いや、最初から、ここまで好きだったわけではない。
 幾度も招かれ、訪れるうちに、その空気を好ましく思うようになったのだ。
 思えば、この屋敷の雰囲気は、ハイライン伯爵家の人々が纏うそれと同じものだった。
 シルヴィア、セドリック、ルイーズ、おそらくはアレクシスの亡き父も……素朴で、純粋で、時に厳しく、されど、その心は誰よりもあたたかい。
 そうして、その資質を、最もよく受け継いでいるのが、アレクシスだ。
 アルゼンタール王国屈指の大商会の娘であるシアの目の前には、美しいもの華やかなもの、誰でも欲しがるであろう贅沢品が広げられていて、彼女はそれを手にすることが許されている。
 金貨の山でも、宝石でも、今は殆ど名ばかりとなった爵位でも。
 でも、シアにとって真に価値あるものは、そうではないのだ。
 例え、彼が伯爵家の嫡男でなくとも、アレクシスが過ごし、愛し愛され、育まれてきた環境を想わせればこそ、この屋敷を好きになった。だから、シアは――。
「……シア、シア……」
 男の声で、シアはふと己がぼーっと考えにふけっていたことに気づき、現実へと戻ってきた。
 深い黒曜石の瞳が、心配そうに彼女を見つめている。
 シアは、ぱちぱちと青い瞳を瞬かせて、平気……と頬を染め、心持ち恥ずかしそうに目を逸らした。
 アレクシスはいかなる時も、曇りない瞳で真っ直ぐに、何の打算もなく、人を見つめるから、嬉しくも、それが時折、照れ臭くなる。
 視界の端に入る青年の肩は、華奢で頼りない己のそれとは異なり、がっしりとしていて逞しい。
 出会ってすぐの頃は、まだ微かに少年らしさを残していたアレクシスたが、ここ一年近くで、余分な肉が落ち、さらに精悍に、男らしくなった。
 冬将軍が到来し、静かな雪が降り積もる頃、アレクシスは十九になる。
 もう立派な、男のひと、なのだ。
 それを意識してしまうと、シアは急に面映ゆいような、胸が締め付けられるような、ひどく複雑な気持ちになった。
 アレクシスと一緒にいられるのは、素直に嬉しい。
 叶うなら、これからも傍にいられたらと思う。
 でも、エミーリア女王陛下との約束は一年、女王の商人としての日々の終わりは、着実に近づきつつあるのだ。……胸が痛い。
「悩み事か……シア?」
 いつになく口数の少ないシアを、案じたのだろう。アレクシスのそれに、セドリックの声が重なった。
「若様が、そんな風に心配なさる必要はありませんよ。このじゃじゃ馬娘に、そんな複雑な悩みなんて、あるはずもないですから」
「失礼ね、何てことを言うのよ!」
「そうだぞ、セドリック……シアにだって悩みぐらいあるだろう、その、多分……」
「それ、なぐさめになってないわよ!」
 自信なさげに口を挟んだアレクシスに、シアは叫びつつ、テーブルに突っ伏す。
 なおも反論をしようとした彼女だったが、セドリックがあまい匂いのする皿を差し出してきたことで、むぐ、と口をつぐんだ。
 香ばしい林檎の匂いが、食欲をくすぐる。
 二人分のデザートと、ティーセットがのった銀のトレイを掲げて、従僕の青年はニヤリと得意げに笑った。
「焼き林檎と洋梨のムース、ヴァニラアイスクリーム添えです。これでも食べて黙りなさい、小娘」
 食い意地を指摘されたシアは、真っ赤になって、それでも食欲には勝てないらしく、「なによぅ……」ともごもご言いながら、スプーンを手にする。
 悔しいが、セドリックの作るお菓子は、どれもこれもほっぺたが落ちそうな位、絶品なのだ!
 ヴァニラのソースを絡めた焼き林檎を一口、シアがぽつりと切り出した。
「最近、父さんの様子がおかしいの……」
 アレクシスは片眉を上げ、スプーンを置く。
「おかしい?クラフト殿が、か?」
「……うん」
 シアは力なく、首を縦に振る。
「今まで、あたしの、女王陛下のお役目に反対したことなんて、一度もなかったのに……今回のお役目は、絶対、駄目だって……何で急にそんなことを言い出したんだか、理解できないわ」
 顎に手をあて、黒髪の青年は思案に耽るような素振りをする。
「今回の……レイスティア侯爵家の秘宝の件か」
「そう、」
 相槌を打ちながら、シアはため息を吐いた。
 今回の女王陛下の依頼は、競売にかけられるというレイスティア侯爵家の秘宝を、女王陛下の御名を出さずに、それを落札することだ。
 『女神の血』と呼ばれるそれは、他に比類ない価値を持つ、大粒のルビーなのだという。
 今日もその仕事の打ち合わせのつもりで、ハイライン伯爵家の別邸を訪れたものの、シアの心には、父の不可解な態度のことが、抜けない棘のように刺さっている。
 競売の日はもう間近に迫っているというのに、クラフトはといえば、レイスティア侯爵家には行くな、絶対に反対だと、強硬な姿勢を崩さない。
 そのくせ、理由をきちんと説明してはくれず、ただ反対だ、の一点張りだから、 シアの機嫌がますます悪くなるのも、無理からぬことだった。
 強い口調で反対されたことよりも、理由を話してくれないことの方が、信頼されていないようで傷つく。
 父の言うことならば、たとえ女王陛下のお役目をおりられないにしろ、きちんと耳を傾けるというのに。
「気に病むことはないさ」
 うなだれたシアに、優しい眼差しを注いで、アレクシスは穏やかな声で諭す。
 低く、胸の奥にしんと染み入るようなそれだった。
「父君が、大切な愛娘のことを一番に考えていないはずがない。きっと、何か事情があるのだろう」
 そうして、シアの不安を打ち消すように、黒髪の青年はいつになく自信ありげに笑ってみせた。
「クラフト殿を、信じろ。シアの父君は、俺が出会った中で、躊躇いなく背を預けられる、数少ない男だ」
 武骨で不器用な騎士のそれは、百万のほめ言葉にも匹敵するであろう、最高の讃辞だった。
「うん……、ありがとう。アレクシス」
 シアの唇から、素直な台詞がこぼれた。
 アレクシスは生真面目が過ぎ、彼女から見ても、朴訥で、不器用な生き方をする男だ。でも、だからこそ、信じられる。
 彼に出会えて、好きになれて、良かったと思う。
 ほっと息を吐いたシアが、まろやかなハーブティに口をつけたところで、従僕のセドリックが「若様、お手紙が」と小さな声で囁き、モスグリーンの封筒を手渡した。
 決して、盗み見る気はなかったのだが、偶然、目にしてしまった、その手紙の差出人に、少女は青い瞳を丸くした。
 アレクシスに宛てられた、手紙の差出人は、ディーク=ルーツ。
 ――ディー兄だ。
 何故、ディー兄がアレクシスに、手紙を出すのだろう?
 驚きを隠そうともしない彼女に、モスグリーンの封筒を胸ポケットに入れたアレクシスは、困ったように微苦笑を浮かべ、「すまない」と小さく謝った。
「近いうちに、ちゃんと話させてくれ」
 アレクシスとディー兄の、手紙のやり取り。
 どんな内容なのか、気にならないといったら嘘になる。
 しかし、真摯な態度でそう口にしたアレクシスに、シアはうなずくよりなかった。


 レイスティア侯爵家が所有する至宝、最も美しいと讃えられるルビー、『女神の血』。

 その競売の当日、奇妙な胸騒ぎを感じたシアは、珍しく、早く目を覚ました。
 亡き母の形見の鏡台の前に座り、朝日を透かす銀の髪を、櫛でとかす。
 そっと、鏡面に手をつくと、記憶に残る母・エステルの面影と、今の自分が重なった。
 (母さま、母さま、シアは、もうこんなに大きくなってしまったのよ……あと少ししたら、記憶の中の母さまに追いついてしまうわ……)
 成長は喜ばしいことのはずなのに、どこか物悲しいような、不安感を感じるのは何故なのだろうか。
 儚げで、優しく、美しかった母。
 家族を愛し、柔らかな微笑みを浮かべながら、どこか暗い影を背負っていた。
「シア、シア、私のかわいい娘……貴女は、貴女だけは、どうか幸せになって……私や母のようにはならないで」
 幼い手のひらを、強く強く握り締めたエステルの目は、鬼気迫るものを感じさせた。
 やわらかなスミレ色の奥に、尋常ならざる光が宿っている。
「黒いドレスの貴婦人には近寄っては、駄目よ。あの家には、どうか、どうか、――侯爵家だけには関わらないで」
 何かとても重要なことを思い出した気がして、シアは、ずきりと鈍く痛むこめかみを押さえた。
 どうしてだろう。
 早い動悸が止まらない。
 何かとても恐ろしいものが、口をあけて待っている気がして、少女はぞくっと身震いをした。
 アレクシスとの約束の時間がある。
 早く支度をして、レイスティア侯爵家に向かわなければ。
 鉛のように重い身体を叱咤して、シアはのろのろとした動作で、扉に手をかけようとする。
 その時、逆にガチャガチャと、ノブをひねる音がした。
「おはよう、シア。もう起きていたかい?」
 扉の隙間から、ひょっこり、ずっと口もきかなかったとは思えない爽やかな態度で、クラフトが顔をのぞかせた。
 娘と冷戦状態だった、近頃の騒動が嘘のような、満面の笑みだ。
「父さん……」
 もしも、力づくで止めてくる気なら、全力で抵抗してやろうと、心に決めていたシアだが、父親の屈託ない口振りに、かえって拍子抜けする。
 そんな一人娘の心情を汲んだように、クラフトはうんうんと頷いて、さも物分かり良い風に喋る。
「例の件では、僕が全面的に悪かったよ。シア……大切な愛娘の話も聞かず、頭ごなしに反対するなんて、父親のすることじゃなかった」
 急にしおらしくなったクラフトに、シアは「いきなり、どういう風の吹き回し?」と、首をかしげる。
 父親の変わり身が急過ぎて、ついていけない。
 頭に幾つもの疑問符を浮かべながらも、あまり時間がないこと思い出し、シアは「いいのよ、父さん。わかってくれれば」と、大人の対応をする。
 娘の寛大な対応に、クラフトはにっこりと笑い、何の迷いもなく続けた。
「いや?やっと、わかっただけだよ。競売に行かせたくないならば、いっそ、部屋に閉じ込めてしまえばいいって」
 言葉とほぼ同時に、扉が閉められる。
 シアが慌てて、扉にすがりついた時は、もう遅かった。
 向こうから、扉が開かないよう、細工する音が聞こえる。
 ――やられた!
 部屋に閉じ込められたのを悟ったシアの顔から、サーッと血の気が引いていく。
 なにをしでかすかわからない父親だが、まさか、ここまでの真似をするとは思わなかった。
 シアは扉を叩きながら、「父さん……ちょっと、父さん……」と、彼女を部屋に閉じ込めた張本人に、大声で怒鳴った。
 再三の、怒りの混じった呼び掛けにも構わず、答えたクラフトは涼しい顔をしていた。
「悪いね、シア。これも君の為だ。だけど、心配しないで。アレクシス君には、僕から説明しておくよ」
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2013 Mimori Asaha All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-