桜花あやかし語り

師走、その警官、奇異な店に迷い込むとのこと [2]

「待て、源三―――っ!」
 びゅう、と木枯らしが吹き荒れる中、藤堂鷹二郎はそう声を張り上げた。
 相手が、待つはずもないとわかっていても、だ。
 折は、年の瀬も押し迫る、師走。
 かまいたちの刃にも似た空っ風が、びりりと頬を撫で付けるのを感じながら、鷹二郎は更に走る速度を上げた。
 カチャリ、と腰のサーベルの鞘が鳴る。
 廃刀令が下さられて久しいこのご時世、駆ける青年の腰にあるものを見れば、彼の身分を察するのは容易い。
 この時勢、そんな物騒なものを手にしているのは、ならず者か、あるいは警官と呼ばれるものだけだ。
 そして、鷹二郎は後者だった。
 よくよく見るまでもなく、その身には詰襟の制服を纏い、頭には警官の証である制帽をかぶっている。
 ただし、それが余り板についていないところを見ると、どうやら新米の巡査のようだった。
 ちっ、と舌打ちすると、鷹二郎はその精悍な顔に、苛立ちをよぎらせる。そうして、キッと前を見据えると、再び声を張り上げた。
「いい加減に止まれ!源三っ!何もないなら、逃げる必要はないだろうっ!」
 鷹二郎の大声に、前を走っていた源三という中年の男が、へへっ、と気の抜けた風に笑う。
 そうして、源三は後ろを振り返らぬまま、なめた声で言った。
「へへっ……そりゃ誤解でさぁ。藤堂のだんな、あっしは何もしてませんぜぇ。ただ、追われると逃げたくなるのが、人の性っつうもんじゃないですかい?」
 その悪びれぬ返事に、鷹二郎の眉が寄る。
 こんちきしょう、と心中で罵倒しながら、前の背中を追うが、相手が無駄にすばしっこいせいで、なかなかその距離は縮まらない。
 いらいら、苛立ちばかりがつのる。
 (ちっ……!ちょこまか、ちょこまかと!)
 そんな彼をあざ笑うように、逃げる源三の背中が揺れた。
「――いい加減にしろっ!さっきスッたのは、わかってるんだ。何もないなら、その懐の中を見せてみろ、源三」
 鷹二郎の声が、届いているからだろう。
 前を行く源三は、ちょこまかとコマネズミのように、路地裏を逃げ回る。小柄な体躯が、嫌になるほどすばしっこい。
 二十以上も若く壮健な、巡査を巻いているのは、大したものだ。
 悔しいが、『逃げの源三』と呼ばれるだけはあると、鷹二郎も認めるしかなかった。
 彼の追う、源三はスリの常習犯だった。
 人ごみに紛れ、そっと袂から財布を抜き取る技は、盗人なりに見事だが、その瞬間を見つけたのが、警邏をしていた鷹二郎だったのだ。
 いかに達人級のスリであろうと、現行犯を見つけては、言い逃れは利かない。
 ましてや、源三はここ五年で、三度もお縄についている。
 弁解や、言い逃れの余地はない……はずなのだが、証拠を持って捕まるだけはご免と、こうして無為な逃走劇を続けているというわけだ。
 逃げるスリの背中を、苦々しく思いつつも、追いかける鷹二郎も必死だった。
 現行犯で捕まらなければ、またああだこうだ、と言い逃れされる。
 しかも、源三は口のうまい男だ。
 ここで捕まえなければ、また裁判官を相手に、病気の母がいるから仕方なく、とか生き別れの娘の為になど、見え透いた嘘をつくのがわかっていた。
(くそ……っ!逃げ足だけは、速い奴だ)
 ジクザグ、と巡査の青年を翻弄するように、源三は逃げる。
 その背中まで、あと少し、だが、あと少しが届かない。
 利き手がサーベルの柄に触れたものの、そこまでではないと頭を振り、鷹二郎は強く、抉るほど地面を蹴った。
 手を、手を伸ばす。
 その指先が、源三の、盗人の着物に触れようとした刹那、ふっと、それが幻のようにかき消えた。
 瞬時、呆然とするが、視界の端に、縦縞の着物が映ったことで、ああ、角を曲がっただけか、と我に返る。
 縦縞の着物が、その道を曲がったことで、鷹二郎はわずかに安堵する。――相手が、これ以上、逃げることはないとわかったからだ。
 逃げることに懸命になる余り、源三はうっかりしたのだろう。
 この先は袋小路、つまり、行き止まりだ。
「……ふぅ」
 鷹二郎は乱れた息を整え、口元を引き締めると、源三の後を追って、角を曲がった。
 その凛とした表情に、迷いはない。
(さんざん手こずらせてくれたがな……もう逃げ場はないぞ)
 心中でひとりごち、いつでもサーベルを抜けるように身構えながら、彼は角を曲がり、周囲を見据える。
 その視界の先には、行き場のない袋小路と、途方にくれたスリの男がいるはずだった。が……
「――――っ!」
 目の前に広がる、予想もしなかった光景に、途方に暮れたのは鷹二郎の方だった。
 眉をひそめ、半ば呆然と立ち尽くす。
 その精悍な横顔に浮かぶのは……驚きだった。
 彼の目に映るのは、何もない袋小路、そのはずだった。否、そうでなければならなかった。
 土地勘もある。記憶もそう、告げている。
 つい一昨日、この道のそばを通りかかった時、ここには何もなかったと、胸を張って断言できる。
 そう、それにも関わらず、眼前には見覚えのない風景が広がっている。つい三日ほど前まで、ここには店など、店らしきものなど何もなく、ただ空き地だったはずなのだ。
 夢か幻か、狐か狸につままれているのかと思えど、あいにく……これは現実だった。
 鷹二郎の唇から、つと怪訝な声がもれた。
「何だ、こんな店……一昨日までは、何もなかったはずだが……」
 彼の目に映ったのは、一軒の、小料理屋のようなそれだった。
 こじんまりとした、だが、落ち着きと年季を感じさせる店構えは、到底、昨日、今日のものとは感じられない。だが、ここに三日前まで何もなかったことは、他でもない、鷹二郎自身が確認している。
 それだけでも、彼が不審を抱くには足りた。
 店自体は、どうということもないが、なんとも言えず怪しい。
 近寄って無事に済むかどうか、どうにも判断がつかぬ。
 一瞬、引き返す、あるいは同僚を呼んでくるという考えが、頭の片隅をよぎったものの、源三のことが気になり、鷹二郎はそれを踏みとどまった。
 彼より、先に角を曲がったはずのスリの男は、いつの間にやら、忽然と姿を消していた。
 蟻一匹たとりも見逃さぬと、気迫を込めて周囲を睨んでみても、やはり、あの小柄な体躯は、影も形も見えない。
 鷹二郎が間抜けにも見逃したのでなければ、源三はまだ、この近くにいるはずだ。なれば、隠れ場所として、もっとも怪しいのは……
 目の前の、この小料理屋に他ならぬ。
「……」
 そう判断すると、鷹二郎は一歩、その店へと歩み寄った。
 頭上では、朱色に白抜きで、『小料理屋・こうめ』と書かれたのれんが風に舞っている。
 引き戸に手をかけ、間髪入れず、巡査の青年はそれを横に引いた。
 ご免、と声をかけながら、店の中へと入る。
 そうした途端、ふわり、と鼻先をうまそうな香りがくすぐる。
 空っ腹を鳴らすような、鰹だしの良い匂いだ。
 うっすらと雲にも似た湯気が、目の端を横切る。
 もし、勤務中でなければ、ごくりっと生唾を飲んでいたであろう鷹二郎だが、残念ながら、今はそれどころではなかった。
 源三はどこに隠れた?と思いながら、鋭い視線で、店の中を見回す。
 どこに雲隠れしたやら、店内にスリの男の姿がないのを見て取ると、鷹二郎は小さく嘆息し、ついで顔を上げると、店内の客たちに問いかけた。
「……失敬。この店に、怪しい男が駆け込んでこなかったか?」
 店内にいた客は、二人……いや、二人と一匹だった。
 ひとりは、濃紺の着流し姿の若い男。
 柔和な顔立ちは、優男と言っていい。
 その手には、徳利。
 組んだ膝には、なぜか三毛猫をのせていた。
 ふてぶてしい猫で、鷹二郎が戸を引いても、面倒そうに、薄目でちらっと一瞥したきり、ふわぁと大あくび、膝の上で惰眠をむさぼっている。
 もう一人は、恰幅の良い中年の紳士だった。
 昨今、流行りの仕立ての良い洋装に身を包んでいるあたり、いわゆる富裕層であると知れる。
 その恰幅の良さと、丸く、人の好さそうな面から、鷹二郎は失礼ながら、タヌキを連想した。
 着流しの優男と、手酌で飲んでいたのだろう。
 タヌキ似の紳士の手元にも、日本酒の徳利とお猪口がある。
 怪しい男は、と尋ねた鷹二郎に、着流しの男は目を丸くする。
 その後、驚いたような声で言った。
「こいつぁ、驚いた。ヒトのお客さんなんて、めずらしいね……ねぇ、社長?」
 柔和な顔立ちに似合う、やわらかで、険のない声。
 しかし、その声にはいささかならず、強い驚きが含まれていて、その理由が解せない鷹二郎は、眉をひそめた。けれども、そんな彼の胸中をよそに、客同士の会話は進んでいく。
 着流しの優男の言葉に、『社長』と呼ばれた恰幅の良い紳士が、本当ですなぁ、と相づちを打つ。
「本当ですなぁ……この店に通って、もう数年になりますが、ヒトの客と同席するなんぞ、初めての経験ですよ。ツネさん」
 社長がそう応じると、ツネさん、と呼ばれた着流しの男は、つぅーっと糸のように目を細めて、制帽をかぶった巡査を見やる。
 そうして、やや弱った顔で「本来、入れないはずなんだけどね。極々たまーにね、こういう客がいるんだよ」とぼやく。
 かりかりと頭を掻いた拍子に、一つにくくった薄茶の髪が、キツネの尻尾のように揺れた。

-Powered by HTML DWARF-