桜花あやかし語り

師走、その警官、奇異な店に迷い込むとのこと [3]

「なるほど、なるほど……ツネさんが驚くとは、初めて見ました。予期せぬ客、と言うわけですな。ワシらの同類じゃなさそうだ」
「ヒトの臭いしかしないよ、社長。隠してるんじゃなければね」
「ほうほう、ツネさんの目なら、狂いはないでしょう。まっこと、奇異なこともあるものですな……」
 そう言いながら、社長は探るような目を、鷹二郎に向ける。
 好奇心に満ちた視線に、鷹二郎は、居心地の悪さを覚えた。
 先ほどから、目の前で交わされる、『社長』と『ツネさん』という男らの奇妙な会話に、なんとも違和感を抱く。
 ヒトだの、同類だの、意味のわからぬ言ばかりだ。
(一体、何なんだ。この店は……?怪しいが、源三がいないならば、さっさと出るべきか)
 顔をしかめた鷹二郎に、気づいたのだろう。社長がタネキ似の顔に、笑みを浮かべる。
 その人好きのする笑みに、鷹二郎もわずかに警戒心をといた。
 社長はふくよかな体をゆらすと、お猪口をもったのは反対の手で、こいこいと手招きする。
 お巡りさん、と彼は鷹二郎を呼んだ。
「お巡りさん、そこは寒いでしょう?遠慮しないで、こっちに来てください」
 ただ単に、小料理屋に来た客ならば、先客のそれは有難いものであっただろう。
 しかし、今は何より、逃げたスリの行方を追わねばならない。
 鷹二郎は首を横に振ると、怪しい男が入ってこなかったか、と再度、同じ問いを投げた。
「ああ。そうでしたな……」
 うなずいた社長は、ツネさんという優男と顔を見合わせ、ゆるりと首を横に振る。
「怪しい男は、見かけとりませんなぁ。そもそも……この店に、ヒトの客は、ほとんど来んのですよ」
 何やら怪しさ満点の返事だったが、そう口にする社長の表情は、嘘を吐いている風ではなかった。
「わかりました。ご協力、感謝します。お騒がせして、申し訳ない。では」
 源三が何処に隠れたかわからぬが、追わねばなるまい。
 少々、引っ掛かる後半は聞かなかったことにして、鷹二郎は礼を言い、踵を返した。
 しかし、引き戸に手をかけた時、鷹二郎は岩のように固まった。
 聞き手に目いっぱい力をこめているのに、それなのに、どうしてか、戸が全く動かない。
 まるで閂でもかかっているように、一寸たりとも。
(おかしい……。さっきは、こんなじゃなかったはずだ)
 柳眉をひそめながら、彼は更に腕に力をこめたが、戸は釘で縫い付けられたように、ビクリともしない。
 幼き日より、竹刀を振り回してきた鷹二郎は、決して非力ではないにもかかわらず、だ。
 掌に血管が浮き出るほど、必死になっても、戸はわずかも動かない。
 それは、やはり異常として言いようがなかった。
 一度、戸から手を離し、もう一度、試みてみるが、やはり結果は変わらない。
「何だ……」
 怪訝そうにそう呟くと、青年はついに両手で、戸を引いた。
 ……が、動かない。どうしても。
 まさか、ここから出れぬよう、戸に細工されたのかと焦るが、この短い時間に、そんな芸当ができる者はいないだろう。
 そもそも、そんなことをして、得する者がいるとも思えぬ。
 戸から、手を離した鷹二郎は苦い声で、「仕方ない……」ともらすと、一歩、そこから後ずさる。
 そうして、勢いをつけて、引き戸に体当たりでもしようかと無謀なことを考えかけた時、ぽんぽんと背中を軽く叩かれた。
「ちょいと落ち着いたら、どうだい?お若いひと、そんなに焦らなくても、そのうち出れるよ」
 柔和な笑みでそう言ったのは、ツネさんとかいう、着流しの男だった。
 鷹二郎が戸を開けられなかったのを、間近で見ていたはずなのに、その穏やかな表情からは、閉じ込められたという焦りは、微塵も感じられない。
 やわらかな物腰しに、毒気を抜かれた気分になりつつ、鷹二郎は困惑した顔で、制帽を撫でつけた。
「あいにくと、そういうわけにはいかないんですよ。源三……スリを追っているんです」
 鷹二郎の言葉に、ツネさんはそう、とうなずいた後、
「そう、急いでるんだね。でも、その扉は、諦めた方がいいよ。今は、どう頑張っても、開かないから」
と、断言する。
 その確信に満ちた口調に、鷹二郎は顔を険しくする。
 急に開かなくなった戸は、何らかの細工がされていたとしても、不思議ではなかった。
 それが、先ほどからひどく奇妙な会話を繰り返す、社長という中年の紳士や、このツネさんとかいう若い男の仕業でないという保証は、何処にもない。
 ――が、一瞬、頭の片隅をよぎったそれを、鷹二郎はすぐに打ち消した。
 この小料理屋に、彼が足を踏み入れてから、十分も経っていない。
 いくら何でも、その短い時間で、彼の目を盗んで、この戸に細工することは難しいだろう。
 かといって、源三が犯人というのも考えづらい。
 そんな彼の思考を読みとったように、ツネさんはふっ、と困ったように微笑って、「僕がやったんじゃないよ。もちろん、社長でも、君が追っているというスリの仕業でもない」と言う。
 いまだ険しい顔を崩そうとしない警官を、柔和な顔をした男は、穏やかに諭す。
「無理をして、出ようとするから、出れないのさ。焦らなくてもいいんだよ……待ってさえいれば、きちんと望む場所に出れるから」
 その悟ったような物言いは、鷹二郎にとって、とうてい、納得できるものではなかった。
 口を開いて、何か反論しようとしたが、それは叶わない。
 彼の心を見透かしたように、穏やかな声がふる。
「慌てなくても、君はただ迷い込んでしまっただけだよ。ヒトの子。だから、すぐに出られるさ」
 確信に満ちた声音で言うと、着流しの男は美味そうに猪口を傾け、あいた手で猫の腹を撫でた。
 男の膝で丸くなった三毛は、にゃーご、とおざなりに喉を鳴らし、なすがままにされている。
 何とも言えぬ、複雑な顔をした鷹二郎に、『社長』が励ますような言葉をかけた。
「ツネさんの言うとおりですよ。お巡りさん。アンタはただ偶然、ここに迷い込んでしまっただけ、だから、すぐに出られます……ワシらを信じろと言っても、無理でしょうが、少し様子を見たらいかがかな」
 その言葉は真摯で、悪意は感じられなかった。かといって、それを受け入れる気になれるかは、また別の話である。
 鷹二郎は尚も険しい眼差しで、開かぬ戸を睨みつけていたものの、やがて、諦めたように手を離した。
 ひどく不本意ではあるが、まさか、戸を壊すわけにもいかない。
 ツネさんやら社長やらの言葉を、信じたわけでもなかったが、しばし様子を見た方が良さそうだ――そう鷹二郎が決めた時だった。
 くいくい、と何者かが、下から彼の袖を引っ張る。
「お客さん……」
 乞われて下を向けば、己の腰の辺りに、ぬばたまの黒髪が見えて、鷹二郎は瞠目した。
「――お客さん、ご注文は?」
 そう言ったのは、十を幾つか越えたくらいの少女だった。
 肩で切りそろえた黒髪、雪のような肌、ちんまりと小柄な体躯……座敷童、という言葉が、ふと頭に浮かぶ。
 その座敷童、もとい少女は近頃、増えてきたカッフェーの女給のような恰好をしていた。
 市松模様の着物に、昨今、流行りのエプロンとやらを身に着けている。
 胸の前には、朱塗りの盆、大皿におでんが盛られている。
 鰹だしのよく染みた、大根、ほろりと黄身をくずした卵、昆布、もっちりとした巾着……。
 寒空の中、ひたすらスリを追いかけてきた鷹二郎は、そこで初めて、己が空腹であることを意識した。
 そんな場合ではないと知りつつ、おでんの匂いが鼻先をくすぐり、ついグゥと腹を鳴らしそうになる。
 いかん――と頭を振った。
「ご注文は?」
 なかなか答えない鷹二郎に、業を煮やしたように、少女は問いを重ねる。
 その声は、やや苛立った風だった。
 割合、短気な性分なのかもしれない。
「ああ。いや、俺、私は客じゃない……」
 少女の追及に弱ったのは、鷹二郎だ。
 小料理屋ののれんをくぐっておきながら、客ではないとは、我ながら、なんともはやな言い草だが、仕方ない。
 たしかに、腹は減っているが、この店には源三を追って足を踏み入れただけだ。
 用が済めば、さっさと出るつもりだった。
 ……なぜか、急に戸が鉄のように重くなったのが、尋常ではないが。
「客じゃない……?」
 鷹二郎の言葉を、少女はやや刺々しい声で繰り返す。
 腰のあたりにある顔は、よく見えないが、その声から不機嫌さが伝わってくる。
 客じゃないなら、何しに来た、とでも言いたげだ。
 ちんまりとした背丈に似合わぬ、迫力じみたものが、少女の声にはあった。
 何やら、責められているようなそれが忍びなく、鷹二郎は困惑顔で頬をかく。
「その、叶うなら、すぐにでも出たいんだが……この戸が……」
 我ながら、ひどく間抜けな言い訳に思えて、彼はもう一度、引き戸に手をかけた。
 一縷の望みを託したそれは、儚くも散り、戸は微動だにしない。
 そんな鷹二郎に、少女は呆れたような息を吐いて、ぬばたまの黒髪を左右にふった。同時に、冷めた口調で言う。
「これだから……ヒトの客は苦手なのよ」
 それは呆れたような、何かを諦めたような響きだった。
 幼く、あどけない見た目にそぐわぬ重い声に、鷹二郎は何とはなしに、うつむいた少女の顔をのぞきこむ。
 他意はなかったが、何かが気に障ったらしく、少女は黒髪を乱れさせ、キッと顔を上げた。
 何よ!でも言いたげな目を向けられた警官は、その少女の貌を正面から見つめた瞬間、とっさに息を呑みそうになる。
 断じて、その気迫に押されたわけでも、腹を立てたわけでもない。
 ただ、その少女の瞳が、この国では珍しい色をしていたので、つい、まじまじと見つめてしまった。
「……じろじろ見ないで」
 こちらを睨んだ少女の瞳は、射抜くような、強い光をたたえていて……
 その色は、曇天の、灰色だった――。

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