桜花あやかし語り

師走、その警官、奇異な店に迷い込むとのこと [5]

 冗談ではなく、鷹二郎は、狐か狸に化かされたとしか思えない心境で、しばし、その場で、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
 なんとか落ち着きを取り戻し、後ろを幾度、振り返ってみても、あの小料理の戸はおろか、『こうめ』という朱色のれんも影も形もない。
 先ほどまでのアレは、夢か幻か、はたまた白昼夢の類か。
 ……そこまで疲れているのか、医者に看てもらうべきだろうか。
 動揺のあまり、そんなことまで考えだした鷹二郎だったが、あのタヌキ……ではなく、社長と呼ばれていた紳士の言葉を思い出す。
『帝都劇場の先の、ミルクホールの辺りを探すと、あなたの探しているスリが見つかりますよ。お巡りさん』
 その言葉を、そっくりそのまま信じたわけでも、狸に化かされるつもりもなかった鷹二郎だが、踵を返しかけ……迷うように、ミルクホールの方に足を向ける。
 過程はどうあれ、職務放棄出来る程、彼は不真面目ではなかったし、逃がしたスリ・源三の行方は気がかりだった。
 流行りの洋装やら、着飾った紳士、淑女で混み合う帝都劇場の前を抜け、往来を歩いていた鷹二郎は、ミルクホールのすぐそば、ちょうど建物の影となる辺りに、見知った顔を見つけて、目を見開いた。
 警官を巻いたことに安堵してか、スリの源三は、懐の盗んだ財布をぽんぽんと叩いて、悦に入った顔をしている。
 鷹二郎はすっ、と表情を消すと、足音を殺して、源三のすぐそばに歩み寄った。
 その痩せた肩をむんずと掴んで、逃がさぬようにする。
「こんなところで待っていてくれたのか、源三……探したぞ」
 彼に肩を掴まれた源三が、ぐぎぎと音がしそうな仕草で、こちらを向いた。
 ひえ、と悲鳴が上がった。
 さながら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「ひえ、藤堂の旦那……っ!どうして、ここが……」
「話はあとで、ゆっくり聞いてやる。その財布のこともな。源三」
「誤解でさぁ、あっしはただ、自分の財布を……」
 またも懲りずに逃げようとするスリの腕に、逃がさぬ、と手錠をかけて、鷹二郎は源三を引きずって歩き出す。
 あの小料理屋の客は、どうして、源三の行方を知っていたのだろう、と思いながら……。
 こうして、「逃げの源三」と呼ばれたスリは、四度目のお縄についた。
 上司や同輩からはお手柄と言われたそれは、鷹二郎にとっては唯、狐につままれたような一日の出来事であった。



 数日後。
 非番の鷹二郎は、例の摩訶不思議な体験をした、袋小路へと立っていた。
 彼は息を詰めて、目の前の、あの『小料理・こうめ』という、朱色のれんがかかっていた場所を見つめる。
 半ば予想していた通り、そこには、店構えはおろか、赤いのれんも、人っ子ひとり見つからない。何もない。以前の、鷹二郎の記憶にある通りだ。
 普通ならば、ここで諦めて、ここで見たものは夢幻の類だったと結論付けるだろう。
 実際、彼もそうしようかと迷った。だが、彼には奇妙な確信めいたものがあった。
 もう一度、あの店に足を踏み入れることが出来る、という、何の根拠もない、だが、確信に満ちた思いが。
 刹那、目をつぶる。
 無心で竹刀を振る時と、同じ要領で、精神を統一する。
 そして、強く乞う、神仏にすがる、もう一度、あの『小料理屋・こうめ』とやらに行けることを。
 ――彼には、目的があった。
 ずっと、ずっと昔、無くしてしまったものを取り戻するのだ。約束は、果たさねばなるまい。
 その為ならば、イエズス会曰く、異教の悪魔に魂を売り渡すことすら覚悟の上だ。その為に、彼はこの道を選んだのだから――
 暗がりを抜け、まぶたを上げる。
 顔を上げ、前を見据える。
 鷹二郎の視界の端で、朱色ののれんが、風にそよいでいた。
 ツネさんと呼ばれていた、着流しの優男――狐の尻尾がゆらゆらり。
 タヌキ似の恰幅の良い社長――スリの居所を教えてくれたのは、あの人だった。
 実に、ふてぶてしい態度の、三毛猫――猫又の尾を揺らしながら、こちらを嗤っていた。
 最後に、店主だと言っていた少女――名前も知らぬ、だが、灰色の瞳が印象に残って……つっけんどうな物言いのわりに、その小さな手は甲斐甲斐しく、最後に、気を付けて、と囁いてくれた。
 ほんの瞬くような間に、それらの面影が脳裏によぎる。
 それにすがるように、鷹二郎が朱色ののれんに手を伸ばすと、その先に、引き戸が見えた。彼は渾身の力をこめて、それを引く。パーンッ、と小気味の良い音がした。
「……っ!」
 いっそ飛び込むような勢いで、鷹二郎は戸の内側に転がり込んだ。
 顔を上げるより先、耳元に、聞き覚えのある、やわらかな声が降ってくる。
「おやおや……いきなり飛びこんでくるから、どこのせっかちな客かと思えば……あの時の、ヒトの子じゃないか」
 前を見れば、あの時のと同じように、藍色の着流しをまとった優男が、困ったような微笑を浮かべて、こちらを見ていた。背にくくった枯葉色の髪が、狐の尻尾のように揺れている。
 その姿を見た瞬間、どうやら、無事にまたあの店に来ることが出来たようだと、鷹二郎は安堵する。
 箸を片手に、苦笑する男――ツネさんは、「また迷い込んだのかい?」と言いたげだった。
「性懲りもなく、また来おったのか。小童……乳も尻もない男はもういいわい、どうせなら、ないすぼでーの若い娘っ子が来れば、ワシも歓迎するというものよ」
 着流し男の膝にどん、とふてぶてしく鎮座した三毛猫は――最早、隠す気もないのか、堂々と二股に別れた尾をさらしている。
「そう冷たいことを、お言いじゃないよ、翁。ほら、とっときの干物をあげるから」
 翁、と呼ばれた猫又は、今更ながら、にゃーと適当に鳴くと、ツネという優男にアジの干物をほぐさせ、それにかぶりつく。とはいえ、なおも鷹二郎を睨んで、「胸が……尻が……」と呟いているあたり、未練の程が知れるというものだ。
「おや、あの時のお巡さんじゃないですか。またお会いしましたな」
 彼らの騒ぎを聞きつけてか、奥側の席から、恰幅の良い洋装の紳士が歩み寄ってくる。
 タヌキ似のまるい顔を見れば、見まごうことなき“社長”だ。
 最初の時と変わらず、愛想良く、にこにこと話しかけてくる社長に、鷹二郎は深々と頭を下げた。
「先日は、ご協力、感謝いたします。おかげさまで、無事に逃げた男を捕まえることが、出来ました」
 彼の言葉に、社長はにこやかに笑って、「それはそれは、良かったですな」と応じる。
「何のお力にもなれませんでしたが、少しでも、お巡りさんのお役に立てたなら、何よりです……あの後、貴方が無事に帰れたかどうか、皆で心配してたのですよ」
 社長が、ねえ、翁?ツネさん?と、飲み仲間たちに、声をかける。
 その言葉に、着流しの優男はまあねえ、と柔和に笑い、猫又の翁は「ワシはヒトの小童のことなんぞ、ちっーとも、心配しとらんかったがな!ワシが心配するのは、美人だけじゃ!」と、憎まれ口を叩く。
 それぞれのらしい反応に、社長はハハッ、と愉快そうに笑う。
「ハハッ……翁は、相変わらず、心にもないことをおっしゃる。そうそう、心配といえば、あの子もお巡りさんのことを気にかけて……」
 社長がうっかり、そう口を滑らせかけた時だった。
 それをピシャリ、とはねつけるような、硬質な声音が響く。
「……また、何しに来たんですか」
 客でもないのに、と続けた声は、呆れ気味だった。
 からん、ころん、とぽっくり下駄が鳴る。
 灰色の瞳が、こちらを見ていた。
「君は……」
 鷹二郎が、呟く。
「前にも言いましたけど……ここは、妖怪専門の小料理屋なんです。ヒトは、お呼びじゃないんですよ。わかったら、お帰り下さい」
 とっと帰れ、要約すると、そういう意味であろう。
 そう言ったのは、あの日に、この店の店主を名乗っていた少女だった。
 ひどく小さいなりにもかかわらず、ぬばたまの黒髪の下からのぞく貌には、意志の強さと胆力が感じられる。
 あの日と同じく、カッフェーの女給と似た格好をした少女は、矢絣の着物の上にエプロンを纏い、朱塗りの盆を抱えていた。
 盆の上には、ちょこんと器にもられた、黄金のさつま芋の煮物。
 ……素朴なそれは、妙に美味そうだった。
 そんな鷹二郎の視線に気づいたのか、少女の灰の眼差しは、更に険しくなる。
 今にもとっとと帰れ、と叩き出されそうな剣呑さを感じて、鷹二郎は覚悟を決めると一歩、彼女の方に歩み寄る。
 その、只ならぬ緊張感を孕んだ様子に、場の空気がゆらいだ。
 社長は不安そうに、ツネさんは油断なく、翁は愉快そうに、彼と彼女を見つめる。
 一触即発ともいえる雰囲気の中、正面から少女を見据えた鷹二郎が、口火を切った。
「非礼を承知で、頼みがある」
「……頼み?私に、ですか?」
 あからさまに怪訝な顔をする少女に、頼みがある、と口にした青年はうなずいた。
「この店の存在がどうとか、まともに考えると、おかしくなりそうだが……この際、野暮なことは言わん。あなた方の正体も、口外しないと誓うから、俺も、この店に通わせてもらえないか」
「……呆れた。人の話しを聞いてないとは、礼儀知らずなことですね。これだから、ヒトは嫌いなんです」
 鷹二郎の言葉に、少女は憮然とした顔をした。
 灰色の瞳が、不機嫌そうにすがめられる。
 突き放すように、「ここは妖怪の為の食事処なんです。ヒトが来る場所じゃないですよ」と、続けられた。だが、鷹二郎は無理は承知の上だ、と言い張り、退こうとしない。
「無理は重々、承知の上だ。その上で頼みたい……もう十年以上も、人を探している。情報屋も雇い、ありとあらゆる伝手を使って探したのに、手がかりひとつ得られない。が、ここならば、何か見つかるかもしれない」
 普通の場所じゃない、ここならば、と続けた青年の声は、ひどく真剣で、到底、嘘を吐いている風ではない。
 しかし、少女は頑なだった。
 胡散臭げな目で、鷹二郎を見て、かぶりを振る。
「戯れも、休み休みになさってください。というか、貴方、おかしいですよ。なんで、私たちを見て、妖怪を見て、怯えないんですか。人探し、ですって……冗談も、いい加減にしてください」
 舌鋒鋭いそれが、不思議と、鷹二郎の決心を砕くことはなかった。
 退けぬ事情があるというのもあるが、少女の侮蔑的な言葉が、己ではなく、ヒトという存在に向けられたものであると、薄々、察しがついたからかもしれない。
 更に、鋭い言葉をぶつけようとした少女の唇を封じたのは、穏やかな物腰の男が放った一言だった。
「まあまあ、その辺にしておいたら、どうだい?そのヒトの子……お巡りさんも、何某か、心に決めたことがあるからこそ、また、この店を訪れたんだろうし、ね?」
 なだめるように割り込んできたツネさんに、「ね?」と同意を求められた鷹二郎は、反射的に首を縦に振る。
「ええ、その通りです」
 着流しの男はうんうん、とうなずいて、また少女の方へと向き直る。
「だ、そうだよ。人探しぐらい、いいじゃないか。何も手伝ってくれ、って無茶を言っているわけじゃないし。ねえ?」
 穏やかな口調で、諭すように言われ、少女はむすりと押し黙った。
 他の客ならばともかく、この店の先代にとって特別な者であり、自分の親代わりとも言えるツネさんの言葉は、断りにくい。
 でも、と少女の控えめな反論は、柔和な微笑みの前に、あっけなく陥落した。
「ヒトであれ、妖怪であれ、困った者は見捨てない。美味しい食事の前には、皆、平等……それが、先代の信念だったでしょう。小梅さんなら、きっとそうするよね」
 決して声を荒げることもない、自分の主張を押し付けてくる風でもない。だが、穏やかな声音はするり、と閉ざされた胸の、奥の奥まで届いてしまう。
 負けました、と少女がため息をつく。
「わかりました。不本意ですけど、今回だけは例外です。ツネさん」
「ありがとう。相変わらず、君は優しい子だね。よいこ、よいこ」
「今の状況だと、嫌味にしか聞こえないです」
 よいこ、よいこ、と頭を撫でてくる手から逃れて、少女は鷹二郎の方へと向き合う。
「ここは、あくまでも小料理屋ですから、人探しのお手伝いはできませんけど、お客さんとして訪れる分いんは、ご自由にどうぞ……これが、最大限の譲歩です」
 一度、約束したことを反故にする気はないのか、少女の口調にはよどみがなかった。
 灰色の目からも、心なしか、険が取れている。
 十分だ、と鷹二郎は力強く応じた。
「感謝する。無理を言って、すまないな。店主」
「いいえ……前にも言いましたけど、お礼ならば、ツネさんに言ってください。それよりも……」
「ん?」
 つん、とそっぽを向いた後、「それよりも……」と切り出した少女に、鷹二郎は首をかしげる。
「人探しって、一体、誰を探してるんですか?言っておきますけど、この店にいらしてくださるお客さんは、妖怪ばかりで、ヒトのお客さんは来ませんよ……なのに、どうして?」
 少女の疑問は、ツネさん、社長、翁にとっても気になることであったようだ。
 先ほどまで、社長の膝を枕替わりにし、ぐだぐだと惰眠をむさぼっていた猫又も、ふにゃーと伸びをする。金の細い目が、その真意を探るように、鷹二郎を見ていた。
 四対の目で凝視された警官の青年は、「それは……」と一瞬、迷うように口ごもったあと、再度、唇をひらく。
「神隠し、にあったからだ」
 彼の言葉に、四対の目に一様に、怪訝そうな色がよぎる。
「神隠し、ですか……」
 最初に、それを素直に口に出したのは、社長だった。
 人の良い彼は、根ほり葉ほり事情を聞き出すことに、気が咎めているようだったが、それを聞かずして、先に進めないと心を決めたのだろう。
 ――どなたが、と続けた。
 辛い記憶を辿る問いに、鷹二郎は唇を噛む。
 あの日から十余年余り、あの子と離れてしまったことを、何度、何度、後悔しただろう。
 まだ、たったの六つだったのに、お伽噺の王子さまの迎えを信じているような、そんな子供だったのに、あの儚く、小さな存在を守らねばならなかったのに、なぜ自分は……あの時、手を離してしまったのだろう。
 わからぬほどに、拳に爪を立て、彼は探し続ける、その名を口にした。
「佐保、と言います。四つ年下の、俺の妹です……十年以上も前に、ある日、忽然と姿を消してしまいました」
 妹がいなくなってから、十年以上もの月日が流れたというのに、鷹二郎の記憶の中、いまだ佐保の面影は鮮明だ。
 ひらりひらり、と桜が舞い降る中、うれしそうに笑顔をみせていた佐保――。
 舶来もののリボンを、お披露目して、得意げだった。
 もうすぐ七つの誕生日だと、指を折って数えていたあの子が、どうして――。
 毎年、毎年、桜の季節が巡る度、思い知らされる。
 桜の花は毎年、変わらず、見事に咲き誇る。
 己はそれを眺める。
 でも、佐保がいない。
 あの子だけが、記憶の中、取り残されたままだ。
 傷を流し続けたそれが、やがてかさぶたとなるのを、苦い気持ちで受け入れながら、鷹二郎は己の腹位までしかない背丈の少女と、目線を合わせる。
 灰色の、薄く曇った空を思わせる眼。
 正面から彼女を見つめて、鷹二郎はかつて覚えがないほど、真剣に言った。
「貴方に迷惑をかけないように、努力する。だから、もし、何かの切っ掛けで、佐保の手がかりが耳に入った時だけでいい。教えてもらえないか……俺はどうしても、妹を見つけなければならないんだ。――頼む!」
 この上なく真剣な懇願に、少女は特に、何ら感慨を受けた様子はなかった。
 その顔は相変わらず、客商売とは思えない、無表情である。
 勝手にしてください、と彼女は、味も素っ気もない口調で言う。
「ここは、ただの小料理屋です。料理と酒以外、何のおもてなしも出来ませんが……人を探されたいなら、どうぞ、止めはしません」
 面倒そうにそう言った後、少女はもののついでと言わんばかりの言い回しで、
「佐保、さんですね。こちらも名前だけは、憶えておきます……期待は、しないでくださいね」
 期待はするな、と言いながら、きちんと妹の名前を憶えている少女の律義さに、鷹二郎は唇をほころばせた。つい、気安い軽口を叩いてしまう。
「ああ、よろしく頼む。ツネさんとやらが言うとおり、貴女は人が良いな、店主」
「はあ、嫌味ですか……帝都を守る警官がこれとは、世も末ですね」
「ククッ、そうは言っても、貴女は一度した約束は反故に出来ない性質だろう?」
 いっそ死んでくれ、とでも言いたげな少女の視線にも、鷹二郎は怯まなかった。
 別段、甘く見ているというわけでもなく、ほんとうは情が深いのに、言葉と態度が違う人間には慣れている。主に、父と兄だ。
「……もういいです」
 何も知らない男に、そんな風に言われたのが癪だったのか、少女はふい、とそっぽを向くと、引き戸の方へと歩いて行った。
 遠ざかった少女に代わり、ツネさんと社長と翁、二人と一匹が、わらわらと鷹二郎に近寄ってくる。
 今度は、ツネさんの頭の上を椅子と定めた三毛猫は、ふりふりと二股にわかれた尻尾をふると、「あの娘っ子を説得するとは、ちょいと見直したぞい。小童」と肉球で鷹二郎の肩を叩く。
「ワシ好みの、ないすぼでーの美女じゃないのが残念じゃが、名前くらいは覚えてやろうて……小童、おぬし、名前は何というんじゃ?ワシらに、教えい」
 あくまでも偉そうな物言いをする翁に、社長は苦笑しつつ、
「これも、何かのご縁です。私たちの呼び名は、既にご存じでしょうから……よろしれば、お名前を教えてもらえませんか?」
と、言った。
「失礼。申し遅れました……」
 出会いが普通でなかったとはいえ、まだ名乗っていなかったのを、鷹二郎は失念していた。
 うっかり具合に、己自身、呆れたものを覚えながら、彼はようやく名乗る。
「――藤堂鷹二郎と申します」
 藤堂、と名乗った一瞬、社長が「おや」という顔をした。藤は、東の将軍家に縁深い花だからだ。とはいえ、タヌキの紳士はちら、と鷹二郎の顔色を伺うと、それ以上、何か言おうとはしなかった。
 その気遣いに感謝し、軽く会釈をした途端、「鷹二郎ー。長いのぅ、欠伸が出そうじゃわ」と、容赦のない声が上がる。
 翁だ。
「タカでいいじゃろ、小童。なあに、似たようなもんじゃ」
 間髪入れず、あだ名を決めてくる翁の強引さに、鷹二郎は笑うしかなかったものの、そう妙な呼び名でもなかったので、平然と受け入れる。
 留学時代も、そう呼ばれていたし、むしろ、懐かしいものでさえあった。
「では、タカさん、とお呼びしてもよろしいですかな?ヒトの姿を借りて、ぽんぽこ山商会というのを経営しているもので……ここでは“社長”と呼ばれています。どうぞ、お見知りおきを」
 帽子を取り、礼儀正しく会釈してくる、タヌキ社長の肩に飛び乗りながら、翁は「ワシのことは、翁と呼べ。あと、名づけ親はワシじゃからな。覚えておけよ。タカ」とふんぞり返る。
 いかに偉そうでも、姿が三毛猫なので、威厳もへったくれもない。
「僕の番か……あーっと、名前というか、呼び名はツネ、まあ、狐だから、そのままなんだけどさ……この店の先代、小梅さんとは懇意で、まあ、今の店主の親代わりみたいなものかな」
 着流しの優男はそう名乗ると、「ああ、そうそう」と掌を叩く。
 柔和な顔に、少々、愉しげな色を浮かべて、ツネさんは「あの娘の名前、まだ知らないでしょう?」と、引き戸に手をかけた少女を指差した。
 その声に、黒髪がさらりと流れ、曇天に似た目がこちらを見るが、「わざわざ名乗る必要を、感じません」と、とりつくしまもなく跳ね除けられる。
 がらり、と引き戸が開けられ、厳しい冬の襲来を告げる風が吹き込んでくる。
 細い目をさらに細めたツネさんが、「そういう言い方をするもんじゃないよ」と、たしなめようとするのを目で制し、鷹二郎は自ら、少女の方に踏み出した。
 胡乱な目を向けてくる彼女に、彼は穏やかに笑いかけた。
 愛想の欠片もない少女であるが、なぜか、まったく風貌も性格も異なる妹を思い出して、嫌いになれなかった。
「貴女の名前を教えてくれないか、店主」
「前にも言ったでしょう。私は、ヒトが嫌いなんです……社長やツネさんは違うでしょうから、そちらと付き合って下さい」
「俺はタカ、らしい。――君の名前は?」
「……っ!」
 表情こそ変わらねど、一瞬、苛立ちもあらわにした少女は、キッ、ときつい目で鷹二郎を睨むと、憤然と言い返そうとした。が、あくまでも飄々とした態度を貫く青年に、毒気を抜かれたのか、諦めたのか、ふう、と吐息まじりに名乗る。
「こはる、です。先代に拾われた捨て子ですから、姓はありません」
 こはる、と鷹二郎は頭の中で、字をあてた。
 小春。
 春を呼ぶ、ひとひらの。
「良い名前だな。春を呼ぶ、か」
「貴方に褒められても、嬉しくありません。ただ……」
 先のようにピシャリ、と跳ね除けようとした少女――こはる、はツネさんとの約束を思い出したのか、コホンッ、と咳払いをして、朱色に白抜きののれんを示した。
「行き場のない妖怪に、居場所を。迷える者に、美味しい食事を。困っている者に、手助けを……それが、先代の方針でした。だから、言います。――『小料理屋・こうめ』に、ようこそいらっしゃいました。タカさん」


 それが、はじまり――。
 始まりの前の始まりのはなし。
 長い冬を越え、春を目指すまでの、ほんの始まりの話である。

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