桜花あやかし語り
二章【涙鬼】 [1]
天から、白く冷たいものが降っていた。
ふう、と息を吹きかけ、曇った窓硝子にかじかんだ小さな手を押しつける。
まぁるい頬を寄せたそれは、ひどく冷たかった。
……雪だ。
ほの暗くなりつつある空に、ちらちらと淡く、儚いものが舞う。
帝都劇場の天辺にも、いつの間にやら、白いものが降り積もっていた。
街を忙しなく歩く人々は、頭上を仰ぎ見、傘を差したり、外套の釦をかけなおしていた。
ぐず、と鼻をすすり、赤いほっぺをした幼子に、母親が襟巻きを巻き直している。
その寒気に震えながらも、何処かあたたかな風景を、平太は胸が切なくなるような憧憬を込めて、見つめていた。
パチパチと暖炉が爆ぜる室内にいながら、その心が満たされないのは、どうしてだろう。
平太は、吐息をこぼして、うつむく。
もしかしたら、ゆき姉やらば、教えてくれるかもしれない。
「平太、そこで何をしているの?」
少年が窓にかじりついていると、そう柔らかな声がかかった。
雪輪模様の着物、長い黒髪を背に流した少女は、ゆき、だ。
火災やら病気やらで、二親を亡くした子供たちが集う、この【灯火の家】では、年長で、皆の姉代わりのような存在である。
足元がおぼつかないゆきの手を引いてやるのは、年老いたシスターだ。
深い皺の刻まれた、慈しみに溢れた微笑は、礼拝堂の聖母さまの像によく似ている。
「ゆき姉」
「探したのよ、平太」
そう喋りながらも、血の繋がらない゛姉゛ゆきの目は薄く膜がかかったように、平太を真っ直ぐには映さない。
曇り硝子にも似たそれを、爆ぜる暖炉の赤が照らした。
ゆきは、ほとんど目が見えない。
目を患ったが故に、肉親に捨てられたのだと、昔、悲しげに言っていた。
平太は名残惜しげに窓から離れると、ゆきのそばへと、驚かさぬよう静かに歩み寄る。
そん仲むつまじい姉弟の姿に、老いた尼僧は、慈母の如く目を細めて、
「さあさあ、ふたりとも、こんな寒い場所にいないで、そろそろ夕食の時間ですよ…今日も主の恵みに感謝しながら、頂きましょう」
と促す。
流行り病で二親を亡くして以来、平太にとって、灯火の家の神父や尼僧たちは、父母とも言える存在だ。
はぁい、と素直に頷いて、ゆきと手を繋ごうとする。が、その時、急に騒がしくなった窓の外に、踏み出しかけていた足を止める。
そんな少年の気配を、察してだろう。
見えぬゆきも、何かの異変を察したらしく、怪訝そうに首を傾げた。きゅっ、と眉を顰め、外に何か?、とシスターの袖を引くゆきの表情は、どこか心配そうだ。
硝子玉のような瞳、けぶるような睫毛が、かすかに震える。
少女の気持ちを、汲み取ってだろう。
穏やかに微笑んだシスターは、大丈夫ですよ、と不安をやわらげるように、少女の背を優しくさすった。
「平太、どうしたのです?窓の外に、何かあるのですか?」
窓にはりついた平太は、外の出来事に目を奪われたように、微動だにしない。
シスターの声すらも、耳に入っていないようだった。
その目は、何かに釘付けになったように、窓の外を凝視している。
少年の手が窓にかかり、凍えるような寒波が吹き込んでくるのも構わず、窓を全開に開け放つ。
暖炉のぬくもりを無にするようなそれに、さすがの温和で知られるシスターも、怪訝そうな声を上げた。
「……平太?」
「――黒天狗だ。黒天狗だっ!」
急になだれき込んできた冬の空気に、首を傾げるゆきや尼僧の姿が目に入っていないように、平太は叫ぶ。
その頬は、寒さだけでなく紅潮し、興奮しているようだった。
少年の目に映るのは、帝都銀行の屋根の上を、凄まじい速さで疾駆し、さながら、一陣の風のような黒い影。
桜花の中心にある時計台へと飛び移り、軽業師のように、その影は屋屋根から屋根へと身を踊らせる。
高く跳躍した身は、甲高い悲鳴を上げる通行人も何のその、地面に叩きつけられることなく、建物から建物へと渡っていく。
その身のこなしは、まるで昔語りの天狗のようだ。
「天狗だ……!黒天狗が出たぞおぉぉぉ!」
「義賊だ!」
「上だ!屋根の上にいる!」
通りを歩いていた人々。
泡をくってしゃやから飛び出してきた新聞記者、書生風の青年、断髪のモダンガール、降り続く雪を避けるように、屋根の下に身を寄せていた者たちも、我先にと、堀のによじ登り、屋根から屋根へと乗り移っていく、豆粒のような黒い影を指差した。
遅まきながら、やってきた警官たちが、群れる野次馬たちにがなり立てるのを尻目に、その影、黒天狗はとんっ、と屋根瓦を蹴りつけ、何処かへ霞の如く消え失せた。
警官たちが慌てて、その姿を追おうとするが、既に後の祭りである。
ぞろぞろと沸いてきた見物人のせいで、彼らは前に進むことすらままならない。
大捕物を失敗し、大衆の面前で赤っ恥をかかされたと、苦々しい顔で部下を叱責する、警察署長の姿もある。
かくして今日も、盗賊・黒天狗は警備の網をかい潜り、右往左往とする警察官たちを尻目に、まんまと逃げおおせたたのであった。
「……やった」
平太は思わず、感嘆の声をあげた。
先程までの孤独感を忘れたように、胸に爽快感が広がる。
十数人もの警察官を、あざやかに撒いてみせた黒い影に、痛快さを覚えずにはいられない。
市民の一人としては、褒められた事ではないだろうが、少年は密かに黒天狗に味方していた。
ーー義賊・黒天狗。
奴は庶民からは、何も盗まない。
悪人や悪どく儲けている金持ちだけを狙って、盗んだ金品は、貧しい者や困った者たちの元にばらまかれる。
盗みに入った屋敷は勿論、警備の者たちですら、誰も傷つけず、逃げ足だけを武器に、疾風の如く逃げ失せる、その姿、まさに神出鬼没なり。
善人が良い目を見るとは限らぬ世の中、盗人とはいえ、小悪党に一泡ふかす黒天狗は、庶民の味方と人気を得ていた。
平太も、そのひとりだ。
「黒……天狗……?」
寒さは身体に堪えますよ、窓を閉めなさいな、とシスターが続けるより先、ゆきがそう呟いた。
「……ゆき姉?」
平太が尋ねても、返事はなかった。
「……」
胸に手をあて、ゆきは見えぬ目を伏せ、うつむいた。
いまだ興奮覚めやらぬ通りでは、警官たちが集まった野次馬を、蜘蛛の子を蹴散らすように退散させて、どこからか沸いてきたた記者たちは、我先に取材にいそしむ。
帝都の空には、分厚い雲がかかり、黒天狗が姿を消した道筋を、しんしんと雪が白く染め上げていった。
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