桜花あやかし語り

二章【涙鬼】 [2]

「それで……鷹二郎……」
 藤堂家の居間に、威厳あふるる、重々しい声が響き渡った。
「何でしょう?親父殿」
 その声に含まれる、怒気を感じながらも、鷹二郎は涼しい顔で応じる。その傍ら、フォークで朝食のハムを切り分け、口に運ぶ。
 大学時代、欧州留学の経験があるだけあり、青年の作法はソツがない。
 しかし、そんな落ち着いた彼の態度が、さらに相手の機嫌を急降下させたらしい。
 ぐぅ、と唸られる。
「ワシの言いたいことは、お前とて、よくわかっておるだろう。一体、何時まで、警官の真似事のようなことをしているつもりだ。息子よ」
 眼光鋭く、倅の鷹二郎を見据えるのは、藤堂巌。
 今は滅びし、将軍家直参、藤堂家の当主である。
 名は体を表す、岩のような面は厳めしく、短身ながら、がっしりとした体躯をしている。
 羽織、袴姿は絵になっているのだが、欧州から取り寄せた巨大なダイニングテーブル、椅子、磨きあげられたフォークやナイフに至るまで、西洋式のしきたりに拘る様子は、どこか滑稽だ。
 脇では、老いた家令が、はらはらとした表情で此方を見ている。
「何時までと言われましても……」
 食事を終えた鷹二郎は、ゆるり珈琲をすする。深みのある芳香に、目を細むる。
 欧州の嗜好品の類は、あまり好まぬが、これだけは別だ。
 苛々と、親父殿の気が短くなっているのを知りながら、鷹二郎は殊更に、穏やかな声音で答えた。
「俺は、今の職務に誇りがありますので、そう易々と警察を辞めるつもりはありませんよ。親父殿には、不肖の倅で申し訳ありませんが」
 その実、しれっと言う鷹二郎に、さほどの反省の念は感じられない。
 暖簾に腕押し、叱咤しがいのない次男坊に、巌は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何も、警察がいかんと言っとるわけじゃない。ただ、何の為に大枚をはたいて、お前を洋行させたと思っとるんだ……?ワシの事業を手伝う気はないのか」
「親父殿の計らいには、感謝してます。約束通り、帝桜大では銀時計を授与されました。後は、自由にさせて下さい」
 次第に苛々を募らせていく親父殿と、飄々と、だが、一向に退く様子がない息子に、テーブルに同席した家族たちは、固唾をのんで見守っていた。
 ひとりは、背が低く、人の良さそうな童顔。
 目元涼やかな鷹二郎と比べても、年下にしか見えぬ男は、実際のところ、巌の長男であり、鷹二郎の兄でもある。藤堂修一郎だ。
 父の事業を手伝い、貿易商を営む男は、商売柄、格子模様のネクタイを身につけている。
 父と弟のいさかいを阻止しようと、きりきりと胃を痛める長男の横では、妻の咲希子が、頬に手をあて「あらまあ、お義父さまと鷹二郎さんったら、相変わらず、仲がよろしいこと」などと、ほわんとした笑顔を見せている。
「良い歳なのに、聞き分けの奴め。少しは修一郎のように、藤堂家の為になることをしたらどうだ」
 鷹二郎はそう仰いますが、と前置きし、傍らの家令に目をやった。欧州の執事のようなを格好をさせられた上、セバスチャンとあた゛名された老人が不憫だった。
 親にもらった名は、源三というのに。
「西洋かぶれの親父殿に言われたくないですね。幕臣、藤堂家の末が聞いて呆れます。今は亡き母上も、さぞやお嘆きでしょう」
 軽く皮肉めいた息子の言い回しに、父は不快感を露にした。
 ぴくぴくと、太い眉をひきつらせ、拳をふるわせる。
 噴火の時は、近い。
「ワシは、藤堂家の主として、良かれと思ったことしかせん。我らは、朝廷に刃向かった逆賊。今は時流に乗り、異国の風を取り入れるべきなのだ」
「そうして、刀のみならず、武士の誇りも捨て去るおつもりですか」
「鷹二郎……っ!馬鹿息子がっ、下らん屁理屈ばかりこねよって……!」
 ガタンッ、父が椅子を蹴る気配を察して、鷹二郎は腰を上げた。
 このまま親父殿の説教を聞いていたら、遅刻は免れまい。
 さらわぬ親父殿に祟りなし、旗色が悪くなれば、三十六計、逃げるにしかず。
「それでは、本官は勤務がありますので、これにて」
 爽やかに敬礼すると、スタスタと玄関に向かっていく次男坊に、収まりがつかなかったのは、親父殿だ。
「鷹二郎ー!心配ばかりかけよって、この親不孝もんがーー!」
 口角、泡を吹かんばかりの勢いで、怒鳴り散らす巌に、長男の修一郎と家令が慌てて駆け寄る。
「旦那様、そう興奮されると、血圧が上がります。先週も、主治医の先生に注意されたばかりではありませんか」
 家令の源三は、老いた体に鞭うって、巌にがしっと抱きついて、手を繋いだまま、くるくると回る。さながら、桜鳴館のワルツのよう。
 離せ、セバスチャン……源三、あの馬鹿息子に説教せずにいられるか。なりませぬ、旦那さまー。
 そんな喜劇が繰り広げられる横では、長男の修一郎が場を納めようと奔走していた。
 拳をぶん回す親父殿を押し留め、勤務に向かうという弟の背中に怒鳴る。
「鷹二郎、この馬鹿ッ!親父殿を怒らせるなと、あれ程……!」
 兄の怒声に、鷹二郎は一瞬だけ足を止めると、首だけ振り返り、にかっと屈託なく笑う。
「修兄さん、後は頼みます」
「後は頼むって……!おいっ、よりにもよって丸投げか、鷹二郎!」
 離せ、源三ー。いけませぬー。
 ちょっと落ち着いてくださいよ。親父殿。
 奇っ怪なダンスを繰り広げる父と家令、うろたえる兄を置き去りに、鷹二郎はさっさと支度を済ませ、玄関へと向かう。
 靴を履いて、さて出るかと踏み出しかけた時、背中側から声がかけれた。
「鷹二郎さん」
 箏の旋律にも似た、柔らかな音だった。
「……咲希子義姉さん」
 静々と、淑やかな歩みで、玄関に来るのは、修一郎の妻、咲希子だ。
 彼にとっては、義姉にあたる。
 鷹二郎はふっ、と口元を緩めると、
「騒がしくして、すみません。お疲れになりませんでしたか?」
と、父や兄とは異なる慇懃さで詫びた。
「いいえ、ちっとも」
 咲希子は、くすり、と品よく微笑む。
 いわゆる商家のお嬢様であるだけに、その態度はおっとりし、嫌みがない。
 病弱で、されども、何事にも動じない鷹揚なさまは、芯の強さを思わせる。
 そんな義姉に、外套を羽織った鷹二郎はくくく、と屈託なく笑い、帽子を目深に下げた。
「修兄さんから、お小言を受ける覚悟は、出来てますよ、咲希子義姉さん……親父殿の相手を、押しつけてしまったから」
「あらあら……鷹二郎さんったら、困ったこと。後でお叱りを受けてもしりませんよ」
 めっ、と夫の弟の言動を咎めた咲希子であるが、ほんわかとした風情では、いまいち迫力に欠ける。とはいえ、藤堂家の長男も次男も、この楚々とした女人に、頭が上がらないのだが。
 肩をすくめ、ええ、義姉さん、と素直にうなずいた鷹二郎に、咲希子は眦をゆるめ、口調をやわらげた。
「お義父さまは、鷹二郎さんのことを、心配なさっているのよ。警官は、犯罪から帝都を守る立派なお仕事だけれど、危険なお役目もあるでしょう……?」
 鷹二郎はそれには答えず、微苦笑するのみに留めた。
「親父殿も年を取って、少しは丸くなったんですね……昔は、男児たるもの、敵に背を向けることは生き恥、と雷を落とした人ですが」
 佐保のことがあってから、という言葉を、青年は喉の奥で飲み込んだ。
 まだ幼かった妹は、神隠しに遭って、それっきり、家族の元には帰ってこなかった。
「鷹二郎さん」
 俯いた鷹二郎の首に、ふわ、と暖かいものが巻かれた。襟巻きだ。
 私が編んだの、あの人と色違いよ。
 そう、はにかんだ咲希子は、優しい目をして義弟の背中を押した。
「気をつけて、いってらっしゃい」
 鷹二郎は頭を下げて、帽子をかぶりなおすと、
「いってきます」
と、ちらちらと淡雪が降る空模様、外套の衿を寄せながら、警察署までの道のりを歩き出した。

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