桜花あやかし語り

二章【涙鬼】 [3]

 日も暮れ、寒さはよりいっそう厳しくなり、街中でいまだ目新しい街灯が煌々とともった頃。
 勤務を終えた鷹二郎は、くだんの袋小路に赴くと、『小料理屋・こうめ』という暖簾を、くぐった。途端、体が異次元に迷い込んだような、ひどく不思議な感慨を抱く。
 しかし、以前は不覚にも迷い込んだ其処も、今は自らの意思で踏み込んでいるがゆえに、戸惑うことはない。
 ぐっ、と力を込めて戸を引いた鷹二郎の鼻先を、ぷぅぅん、と小豆を炊く甘い匂いがくすぐった。
「おや、よく来たね。タカさん」
 火鉢にあたりながら、顔を上げ、そう気さくな声をかけてくるのは、例のツネさんという優男だ。
 藍染の半纏を着込んで、ちびちびと熱燗をたしなんでいる。
 狐の尻尾(そのものでもあるのだが……)のような、一くくりにした髪には、例の翁という猫又が、ウズウズとじゃれついていた。
 ススキの先っぽにも似たそれが、本能を疼かせるのかもしれない。
「ツネ、余計なことをほざかんと、はよう餅を焼かんか。わしは、きな粉が食いたい」
 ていていと肉球を振りかざし、火鉢の網で焼ける餅を、翁は食入るように見つめている。なんともはや、恐ろしい程に食い意地の張った猫、いや、猫又だ。
「はいはい、そう急かさなくても、もうすぐ焼けるよ。翁」
 ふん、と生意気にふんぞりかえった三毛猫は、にゃー、とわざとらしい猫なで声をあげると、三日月のようにつーと細めた目で、鷹二郎を見、うししと嫌らしく笑った。
「また性懲りもなくきおったのか、ヒトの小童よ。ほんに物好きじゃあなぁ、いつか帰れなくなっても知らんぞ」
 意地の悪い翁の言動にも、鷹二郎は「探し人がいますから」とさらりと流しただけだった。改めて、言うまでもなく佐保のことだ。
 翁はふん、とつまらなそうに鼻を鳴らすと、網の上でぷう、とふくれた餅に肉球を伸ばし、アツツツ、と転げまわった。
 ほら、言わんこっちゃない、とツネが呆れた顔をする。
「やあ、これはこれは……久しぶりですな。お巡りさん」
 のっそりと、恰幅のよい巨体を揺らし、にこやかに話しかけてきたのは社長だ。
 この店の客の中では、ツネに続いて、鷹二郎に好意的な人物である。
 雪で湿った外套を脱いで、火鉢で暖をとっていた鷹二郎は、どうも、と笑顔で挨拶を返した。
 この社長、本性はタヌキの身でありながら、ヒトとして会社を経営しているが故に、そこそこ忙しいらしく、初対面の時以来、鷹二郎と顔を合わせるのは久方ぶりだった。
 社長は愛想の笑みを崩さないまま、少々、困ったような顔をした。その手には、桜花日報の号外が握られている。
「昨今、なにかと物騒な事件が多くて、弱りますなぁ。こうも度々だと、うちの商売にも影響が出やしないかと、心配の種ですよ」
「号外ですか……?」
「ええ、桜花日報社のすぐ前でね、配っていましたよ。またもや−ー」
 ほら、と鷹二郎や、首を伸ばして覗き込んでくるツネにも見えるよう、記事を広げながら、社長は続けた。
「−−黒天狗が、出たそうですね」
 黒天狗と称されるもの、神出鬼没の盗賊。
 義賊を騙り、悪どい金持ちや外道な金貸しの屋敷に忍び込み、警備の網をかいくぐって、金目のものを盗み出す。そうして得たものを、貧しい長屋や、孤児院やら病院やら困っている者たちに、姿を隠して配り歩いているのだ。
 先の東宮の即位以来、世情は安定しているものの、貧富の格差はなくなるものではない。
 日頃、鬱憤をためている者たちが、黒天狗を義賊、と持て囃すのも、無理もないことと言えた。
 韋駄天の逃げ足を誇り、誰も傷つけることがないというのも、それに拍車をかけているのだろう。
 へぇ、また、と声を上げたツネはともかく、警察の威信にかかわることだけに、鷹二郎へ面目ないとうな垂れるしかなかった。
 黒天狗の捕り物は、今回で指折り数えても足りぬほど、今日も取り逃したと署長の雷が落ちたばかりである。
「こういう輩がはびこるのは、お主らが情けないからじゃぞ。タカ。反省せいよー」
 ふふん、と胸を反らせる翁は、相変わらず、なぜか偉そうで、にべもない。
「……面目ない」
 指摘は事実であるだけに、鷹二郎としても反論のしようもなく、深くため息をついた。
「一体、何を偉そうにしているんです。翁」
 玲瓏たる声音で、そう言ったのは、千鳥模様の着物に、朱塗りの盆を抱えた少女だ。名を、こはる、といふ。
 火鉢の暖で、ほのりと色づいた頬が愛らしい。
 灰色の瞳が、ふんぞりかえる三毛猫を、冷ややかに見下ろしている。
「ぬぅ。店主よ、この甘美で、ワシの魂を捕らえて離さぬ、魅惑的な匂いはもしや……」
 くんくん、と興奮した様子の翁に、黒髪の少女は、ええ、とうなずいた。
「お汁粉ですよ。お待たせしました」
 そう言ったこはるの手元には、大きな白玉団子が二つずつ入った、お汁粉の椀がある。
「ひょほほ、うまそうじゃー」
 こはるが盆にのせたお椀を差し出そうと、ぽっくり下駄を鳴らしたその時、翁がどーんと高く跳躍した。一目散に、お汁粉に飛びつくと見せかけて、実際は、むにゅむにゅと柔らかい胸の谷間に、その身をうずめる。助平、ここに極まれりーー。
「ほほほ、極楽、極楽〜」
「いやあああああああ!この変態!」
 すりすりと胸にすりよる猫又に、甲高い悲鳴を上げたのは、こはるではなかった。
「何すんのよ、この助平じじいーーー!」
 むにゅむにゅと弾力を堪能する翁の身体をつまみ上げ、細い手には似合わぬ腕力で、床に叩きつける。
うぎあああああ、と転げまわる翁を横目に、こはるはお汁粉の椀を、ツネ、社長、しばしの間をおいて、鷹二郎の順番で渡す。
「美味そうだな、有難い」
 頬を緩める鷹二郎とは対照的に、こはるはにこりともせず、「先代仕込みですから」とあくまで素っ気無い。
 これでも、ヒト嫌いの少女としては、妥協したつもりなのだと、鷹二郎は理解していた。何より、冷えた身体に、渡された椀はあたたかい。
 くどくない絶妙な甘さ小豆と、大きな白玉に舌鼓を打つ、社長とツネの眼前では、翁が踏まれ転がされ、さながら、ボロ雑巾のようになっていた。
 うにゅあああ、と悲鳴を上げて逃げ回りながら、翁はこはるに助けを求める。
「店主、店主、早く助けんか、そんな薄情な娘っ子じゃないと、ワシは信じとるぞ……!」
 そんな翁の醜態を一瞥すると、こはるはふい、と顔を背けた。
「自業自得です。この助平」
「うぎゃあああああああああああああああ!」
 断末魔の絶叫が、響き渡る。そして、すぐに静かになった。
 翁がどうなったかは、ご想像にお任せしたい。
 ぱんぱん、と掌の埃をはらい、フン、と鼻息も荒く、熟れた果実のような艶やかな唇が動いた。
「まったく……油断の隙もない、この助平じじい」
 不届き者である翁を成敗し、そう憤慨した顔で言ったのは、なんとも見目麗しい美女だった。
 切れ長の双眸、色白で、唇はぷくりと熟れた果実のよう。うなじを見せた着物姿は色っぽく、いわゆる、小股の切れ上がった良い女である。
 新参者である鷹二郎が、この小料理屋の暖簾をくぐって以来、初めて会う女だった。
 しかし、ツネや社長や顔見知りらしく、次々と声をかける。
「相変わらず、翁相手となると、容赦がないね。クチナシ」
「災難でしたなあ……とはいえ、許してあげたらどうです。翁も少しは反省なさっている、かもしれませんよ」
 ツネや社長の言葉に、クチナシ、と呼ばれた女は、きりりと形の良い眉を吊り上げた。
「翁が、反省なんかするものですか。このご老人の女好きは、筋金入りなんだから」
 とはいえ、いつまでもぷりぷりと腹を立てていても仕方ないと思ったのか、
「まあ、いいわ。いつまでも怒っていると、せっかくの、おはるちゃんのお汁粉が勿体ないもの」
と言い、ね?とこはるに笑いかける。
 そうすると、艶っぽさよりも、気風の良さが際立った。
「クチナシ、その通りだけども、それ以外、何か気づいた事はないかな?」
 翁への怒りで視野が狭くなっていたらしい女に、柔和な笑みを浮かべたツネが、そう尋ねた。
 空にした椀を手に、鷹二郎が苦笑する。
「え……」
 女はまじまじと鷹二郎の姿を見つめ、戸惑ったようにツネや社長たちへと目を泳がせた後、おはるちゃん、と店主の名を呼ぶ。
「このヒトは、誰なの……?おはるちゃんが、人間のお客を入れるなんて、聞いた事もないわ。まさか、匂いはしないけど、貴方も妖怪なの?」
 穴があくかと思うほどに見つめられて、鷹二郎はいや、と首を振りつつ、答えようとした。が、彼が口を開くより先に、こはるが先に女の言を否定する。
「ただのヒトですよ。残念ながら。ツネさんの口添えがあったので、仕方なく」
 渋々といった態の店主に、女はそうなの、と首肯すると、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
 うきうきとはしゃいだ素振りを隠そうともせず、鷹二郎の前に立つと、話しかけてくる。
「ねえ、貴方、名前は何というの。あたしは、クチナシ、梔子というの」
「藤堂鷹二郎と申します。化生のお方」
「あら、あたしたちの正体をご存知なのね、なら……」
 梔子はふふ、とあだっぽく笑むと、着物の袖で顔を覆った。次に顔をさらした時、先ほどまでの美女は何処にもいない。
 いや、顔というか、何もない。目も口も、鼻も、何一つとしてない。まっさらな顔だけがある。のっぺらぼう。
 常人であれば、悲鳴を上げるか逃げ出すか、だが、鷹二郎は顔色ひとつ変えず、愉快そうに口角を上げたのみだった。
「いかが」
 ちらちらと此方の反応を伺う梔子に、微笑ましささえ感じて、鷹二郎は笑みを深めた。
「本官は、どちらも美しいと思いますよ。飾る美もあれば、飾らぬ美もある。すっきりしていて、好ましい」
「あら、お上手ね。貴方こそ、胆力のある殿方って魅力的よ」
 しゃべりながら、梔子がひらり、と袖を振ると、また先ほどの色っぽい美女が姿を現した。
 驚かれず残念だったような、鷹二郎の反応を好ましいものと捕らえたような、そんな複雑そうな表情で、梔子は青年と目を合わせた。
「よくよく見たら、精悍な感じの男前ね。おはるちゃんのお気に入りじゃなければね、惜しいわぁ」
「梔子さんっ。冗談が過ぎます」
 満更、冗談でもなさそうな梔子の言葉に、こはるが心底、嫌そうな顔をする。
 どういう反応を返すべきか図りかねて、ぽりぽりと頬をかく鷹二郎の横で、餅に黄な粉をまぶしていた社長が、
「梔子さんは、ヒト贔屓ですからなあ。恋の花が多くて、いやはや羨ましい限りです……最近は、画家の青年を、お気に召されているのでしたか?」
と、話を振る。
 梔子は、鷹二郎から身をはなすと、機嫌よく恋人のことを惚気た。
「そうよ。あの時計台の近くにある、古い教会、わかるでしょ?その傍に住んでいて、孤児院の手伝いもしているの。優しくてね、あたしにモデルになってほしいなんて、言うのよ……」
「ほうほう」
 社長は、余計な口を挟んだりせず、梔子の惚気話を聞いてやる。 
 自分と同じく、ヒトの社会に溶け込んでいる相手だからか、その眼差しは優しい。同時に、正体を隠している以上、いつか必ず来る別れを知っていればこそ、切なくもある。
「振られたのー。タカ。なあに、お前さんぐらいの洟垂れ小僧でも、一生に一度ぐらいは良い目を見るじゃろうよ。ワシなんぞ、いつもじゃが」
 いつの間にやら、復活した翁は鷹二郎の膝によじのぼり、なぐさめやら、なぐさめにもならぬようなことを言う。ドサクサにまぎれて、二股の尻尾をおじりに伸ばしてくる翁に、梔子が般若の形相になった。
「翁、あんたって猫は……助平は、死んでも直らないの!」
「にゃー、ぎにゃー、そうやって、老い先短い年寄りの、数少ない愉しみを奪う気か。ぎにゃああ、尻尾を踏むのは、勘弁じゃ。毛が、毛が、毛が抜けよる!」
 口直しの塩昆布を食みながら、ツネは翁は懲りないなあ、とボヤく。
 同時に、再び幕を開けようとする、惨劇を阻止するように、梔子、と彼女の目を鷹二郎の方へと引き戻した。
「君、顔が広いだろう。クチナシ?ヒト、妖怪問わず」
「それほどでもないけれど……どうかしたの?ツネさん」
 ことり、首をかしげた梔子に、狐の優男は、彼が、と鷹二郎を示した。
「行方不明になった妹さんを、もう何年も探しているそうなんだ。良かったら、協力してやってくれないか」
「それは……」
 ツネの言葉に、鷹二郎の心境を慮ってだろう。
 梔子が、形の良い眉をひそめ、痛ましげな目で、兄である青年警官を見やる。
 鷹二郎は微かに目を伏せて、頼みます、と頭を下げた。
「わかったわ。力になれるかはわからないけれど……妹さん、年は、おいくつ?」
  かたじけない、とよりいっそう深く頭を垂れて、鷹二郎は答えた。
「佐保、といいます。年は、数えで十六、いや、十七です」
「じゃあ、おはるちゃんと同じくらいね」
 ほ、と声をあげそうになるのを、鷹二郎はすんでで堪えた。
 ちんまりとした人形のような風貌ゆえに、店主は年より随分と若く見える。
 声には出さずとも、彼の表情から察してか、こはるがむすーっと不機嫌そうな顔になる。とはいえ、我が事でもないのに、お願いします、梔子さん、と口添えしてくれる辺り、前にも思ったが、愛想の無さとは裏腹に、懐がふかい。
「ツネさんやおはるちゃんにも、頼まれちゃねぇ……わかったわ。仲間の伝手で、それらしい話が聞けたら、教えるわ」
「巻き込んで、申し訳ありません。どんな些細な話でもいい、お願いします」
「いいのよ。困った時は、お互い様だもの」
 梔子は心得たとばかりに、片目をつぶると、
「あっ、いけない。あの人との約束があるのよ。早く行かなきゃ……!」
と、慌てた風に叫ぶと、引き戸に手をかけた。
「それじゃあ、おはるちゃん、ツネさん、社長、またね。タカさんも。翁は、次にスケベな真似をしたら、わかってるでしょうね…!!」
 ぎりぎりぎりと木の柱に爪を立てた梔子の、鬼の形相に、さしもの翁も怯え、社長とツネの間に隠れる。
 こはるは肩をすくめて、手際よく空になった碗を片付けていく。
 ひらり、ひらりと茜色の袖からのぞくは、白い掌。
 ちんまりとした体躯で、くるくるとコマネズミのように甲斐甲斐しく働く店主は、ちらっと梔子の方に目をやり、忠告する。
 灰の瞳には、案ずるような色があった。
「気をつけてくださいね、梔子さん。最近、黒天狗とやらが暴れているとか……何かと物騒ですから」
 粋でいなせな美女は、振り返り、艶然と笑うと、すっぽりと店主の体を抱き締めて、「ありがとう、おはるちゃんもね!」とよゐこ、よゐこ、とおかっぱ頭を撫でる。
「……苦しいです」
 むぎゅり、と柔らかな弾力をおしあてられて、少女は呻いた。
「黒天狗ねえ……」
 ちびちびと熱燗を一杯やりながら、ツネがしみじみとした口調で言う。
「義賊を騙ったところで、やっていることは、ただの盗人だろうに、ヒトはそういうのが好きだねぇ、ホント」
 まったくですなぁ、と手酌で顔を赤らめた社長が、相槌をうった。
 例え、義賊を騙ったところで、罪は罪。
 その行為は、誉められたものではないにもかかわらず、庶民は我らが味方と拍手喝采する。そんな人の世の矛盾を、妖怪たちに見透かされたようで、鷹二郎は苦笑を浮かべるほかなかった。
「そうよねぇ。ああ、そう、黒天狗といえば……」
 後れ髪を指に絡めて、梔子は、ぷくり唇を尖らせた。
「さっき彼が手伝っている教会の話をしたでしょう?そこの孤児院……【灯火の家】というのだけど、そこの男の子が、妙なことばかり言うのよ」
「「妙なこと?」ですか?」
 鷹二郎とこはるが、声を揃える。顔を見合せ、一時、何とも言い難い空気に包まれたふたりに気がつかず、艶やかな美女は、そうよ、と首肯する。
「平太という子なのだけど、黒天狗の素顔を見たなんて、おかしなことを言うのよ……黒天狗の正体を見た者は、誰もいないというのに、変な話でしょう?」
 子供の作り話かもしれないけど、と続けた梔子に、鷹二郎は笑わなかった。
ただ静かに、そうですか、そんなことが、と応ずる。
「梔子、君、行かなくて大丈夫なのかい?恋人を、待たせているんだろう」
 膝にのせた翁を撫でながら、ツネが声をかける。
 あら、いけない。それじゃあ、今度こそ、またね。色男さん。
 戸を引いて、慌ただしく、夜の帝都に飛び出していく梔子の背を見送り、鷹二郎は目をすがめた。
 こはるは黙って厨房に立つと、包丁を握り、明日の仕込みを始める。 火鉢の炭がちりちりと燃え尽きてゆく。
 ふわあ、と大あくびをした翁が、ぐでんと大の字になる。
 宵闇に淡雪が舞うなか、夜が更けていった。

-Powered by HTML DWARF-