桜花あやかし語り

二章【涙鬼】 [4]

「今日も、ことのほか冷えるなぁ……なあ、藤堂?」
 おぉ、寒い寒い、と体を揺すり、掌をすり合わせる警官に、街中を見ていた鷹次郎は、えぇ、と相槌を打つ。
「まったく……この寒いってのに、黒天狗だなんだと、良い気なもんだぜ。おかげで、俺ら警察の狗は休む間もねぇ」
 ふん、と警官の男は、皮肉気に鼻を鳴らす。
 自分よりひとつ、ふたつ、年嵩であろう彼を、鷹次郎は微苦笑をはいて「警邏中ですよ、先輩」と諌めた。
 言われた男は、真面目なこったと笑い、凍えた手をおとしに突っ込む。
 男の名を仁木と言い、穏和そうな外見にそぐわず、口が悪く、喧嘩っ早いのがたまに傷だった。
 鷹次郎は抑えた笑みをこぼしただけで、先を行く同輩の後に続く。途中、人力車とすれ違い、流行りの洋装に身を包んだ淑女、その渦巻きのような奇抜な髪型に、目を奪われる。
 桜鳴館から、帰途につく最中だろうか。
 夜通しワルツを踊りあかしたのが、繻子の扇子越しに見た目は、眠りの妖精の接吻を耐えているようだった。
 鷹次郎と仁木は、警邏の任務の最中だった。
 黒天狗などという物騒な輩が横行しているとは思えぬ程、帝都・桜花が活気に満ち溢れている。
 大通りを、昔ながらの乾物売りが通ったと思えば、矢絣の着物にブーツを履いた女学生が、臙脂のリボンを揺らし、颯爽と自転車にまたがっている。
 その流れる黒髪に見惚れる書生もいれば、昨今、ちょいと噂の見世物小屋の前では、長蛇の列が出来ている。何でも、すべてを見通す千里眼のお通といふ女がいるらしい。
 欧州から流れ込んできた文化の影響もあろう。
 旧きもの、新しきものが、混在する風景だった。
 所詮、ハイカラと呼ばれるそれは、欧州留学を経験した鷹次郎の目から見ても、えもいわれぬ不思議な魅力がある。
 さて、最近、とみに増えつつある、洋食屋の看板の下を、警官たちが通った時だった。
 道の隅から、ぎゃいぎゃいと子供たちの騒ぎ声が聞こえてきたのは。
 けたたましい、耳障りにすら聞こえる少年達の声は、揶揄し、罵倒しているそれだった。
 ちっ、うるせぇな、仁木が警官らしからぬ舌打ちをし、どこか暴力的な気配を孕んだそれに、鷹次郎は眉を顰め、足を止める。
 彼らの目に映ったのは、年上の少年達に取り囲まれて、頭を抱えてうずくまる、幼い少年の姿だった。
「やぁい、やぁい、この親無し子……っ!」
「言い返せないんだろう!この弱虫っ!」
「悔しかったら、言い返してみろよ!平太よぉ!」
 多勢に無勢。
 痩せた少年ひとりを取り囲んで、やいのやいのと囃し立てる、苛めっ子たち。
 周りから、からかいや罵声、時に小石つぶてをぶつけられる少年は、逆らうことも抵抗することもせず、(下手に逆らえば、余計に辛い目に合うことを悟っているのか)じっと目をつぶり、耳をふさいで、丸くなっている。
 弱いものを、大勢でいたぶるがごときそれを見るに見かねたのだろう。
 こぉらー!と仁木が声を張り上げ、拳を振り回した。
「こぉらーー!!何やってんだ!この悪タレどもが!!」
 その怒声に驚いてか、さんざん囃し立てていた子供たちが、いっせい警官たちの方を見ると、慌てたように高い悲鳴を上げた。
 まずいよ、お巡りだ。
 逃げよう。
 捕まったら、大変だ。
 鬼のごとき仁木の形相が利いたのか、苛めっ子たちは、さながら蜘蛛の子を蹴散らすように、ちりぢりになる。
 ふん他愛もないと鼻を鳴らした先輩に、流石ですね、と声をかけ、鷹次郎はうずくまっていた少年へと駆け寄った。
 いたずらに怯えさせぬよう、努めて優しい声音で、手を差し伸べる。
「大丈夫?……立てるか?」
 鷹次郎の問いかけに、少年は俯いていた面を上げ、細かい傷だらけの顔をさらした。
 痩せ細り、質素な身形をした子供だった。
 伸ばし放題、ざんばらの髪がまた憐れみを誘う。
 少年は、ぼんやりとした顔で、鷹次郎を見ると、キッ、と眉を吊り上げ、差し出された手をはねのけた。
 まだいとけない顔にそぐわず、その眼光は強く、ぎらぎらと異様な輝きを放っている。
 それは、捨てられた子猫が、これ以上、絶対に傷つけられまいと、必死に毛を逆立てるのにも似ていた。
 はねのけた手が、パァン、と乾いた音を奏でて、指の先からじんじんとした熱が伝わる。
「平気。気安く、さわるな!!」
 少年は鷹次郎を睨み付けると、片手でぐい、と頬ににじんだ血をぬぐう。
 一方、理不尽にも、差し出した手を拒まれた青年はといえば、憤るでもなく、ただ困ったように眦を下げたのみだった。
 それを傍らで見ていた仁木は、ふうふうと肩で息をする少年に、詰問にも似て尋ねる。
「君、名前は?」
「……」
「歳は?どこの家の子?」
「……」
 何を聞かれても、頑なに口を閉ざし続ける子供の姿が、警官は腹に据えかねたようだった。
「助けてやったってのに、ずいぶんと恩知らずなガキだな。だんまりか」
「……」
 可愛げがない、ともとも子もないことを言い出しかけた仁木の向こう脛を軽く蹴りつけ、小さく上がった悲鳴にかまわず、鷹次郎はなんとも爽やかな笑顔で言い切る。
「先輩、少し黙っていてもらえますか?話がややこしくなるだけなので」
 彼の本気が伝わったのだろう。
 仁木は無言で、後ろに下がった。
 鷹次郎はひょい、と制帽をかぶりなおすと、少年の前で身をかがめ、目線を合わせた。
 敵意も露な眼差しに、動じることなく、微笑みかける。
「さっきは、悪かったな。俺は、藤堂鷹次郎というんだ……君の名前は?」
 教えてくれないかと、言葉を重ねた鷹次郎のそれに、少年の瞳がわずかに揺らいだ。
 しばらくの後、への字を描いていた唇が、音を紡ぐ。
「……平太」
「平太か。ありがとう……よければ、何処に住んでるのか、答えてくれないか。家まで、送っていこう」
 親御さんも心配しているだろうから、という言葉を、鷹次郎はすんでのところで飲み込んだ。
 さっき、この子を苛めていた少年達の親無し子、という言葉を思い出したからだ。
 案の定、平太は首を横に振った。
「親はいない。暮らしているのは……【灯火の家】」
 やはり、と鷹次郎は納得すると同時に、淡い記憶が疼くのを感じた。
 灯火の家。
 どこかで聞いた名だった。そうだ。昨晩、『小料理屋・こうめ』に居た時、梔子というひとの口からーー
「藤堂」
 思案に耽っていた青年の思考を、同僚の男が呼び戻した。
 鷹次郎はすみません、と詫びると、仁木に頭を下げて、すっかり元気をなくした平太の手を取った。
「先輩、すみませんが先に署に戻っていて下さい。本官は、この子を灯火の家に送り届けてきますので」
 後輩の言葉に、仁木は溜め息をついたものの、異を唱えることはしなかった。
 しょうがない、とうなずくと、早めに戻ってこいよ、と釘を刺す。
「はい、わかっています。仁木先輩」
 足早に去っていく警官の背姿を、鷹次郎は平太と手を繋いで見送った。
 行こうか、と促すと、平太の返事はなかったが、その代わり、鷹次郎の手を掴む力が強くなる。
 それで、十分だった。
「何で、あんな風に喧嘩していたんだ?」
 灯火の家に向かう道中、落ち着いた頃合いを見計らって、鷹次郎は平太に話しかけた。途端、平太の眉が苦しげに曇って、悔しげな声で呟いた。
「アイツらが……」
「……うん?」
「アイツらが、俺のことや灯火の家のことを馬鹿にするんだ。黒天狗の正体を知っているんだって言っ
たら、嘘つき呼ばわりされて……」
「……それで?」
「お前が嘘つきなのは、灯火の家で、異教の奴等と暮らしてるからって、嘘吐きは閻魔大王様に舌を抜かれるぞ、って……!」
 そこまで語り、平太は俯くと、今にも泣き出しそうな顔になる。
 悔しさと怒りを、上手く言葉に出来ないのだろう。
 繋いだ手が、ふるえた。
 本当なのに、と平太は繰り返す。
 俺はホラ吹きなんかじゃない。
「本当なのに……どうして……」
 鷹次郎は何も言わず、一度、少年の頭を撫でると、空高く、金色の煌めきを放つ、教会の十字架を仰ぎ見た。
 あれが、昨晩、梔子が語っていた教会であろう。
 その教会の傍ら、守られるように併設された、煉瓦作りの洋館がある。
 赤茶色の壁に緑の蔦を這わせ、ひそやかな静寂を守るそこを、【灯火の家】とそういった。
「平太……っ!今まで、どこに行っていたのです!」
 教会の前まで、鷹ニ郎と平太がやってきた時だった。
 初老の、優しげな尼僧が、被り物を乱し、を慌てた様子で階段を駆け降りてきたのは。
 目尻に皺の刻まれた、慈愛に満ちた顔は今、心配でひきつっている。
「シスター・セシリア……」
 鷹ニ郎の前に立っていた少年は、階段を駆け降りてきたシスターに、ひどく困ったような、なんとも言えない表情をした。
 苛めっ子に蹴られた痣を隠すように、警官の青年の影になるように、その背中を、ぎゅ、と掴む。
「……ごめんなさい。心配かけて」
 ばつの悪そうな顔つきで、ぼそぼそと小声で謝る平太に、鷹二郎は淡く苦笑して、励ますように、痩せた少年の肩を抱いて、前へと出した。
「まあ、平太……その傷は、一体、どうしたのです?」
 頬を赤く腫れさせ、目に見える場所に生傷を作った平太に、尼僧はまあ……っ!と悲鳴にも似た声をあげ、痛ましげな目をする。
 どうしたの、と尋ねた老女は、平太が黙り込んで答えないことに嘆息する。
 胸の前で十字を切り、傷ついた子を守るように、抱き締めた。
「……ごめんなさい、シスター」
「なかなか帰って来ないから、ゆきも平太のことを、心配していましたよ」
「ゆき姉が……?」
「えぇ」
 尼僧と少年の会話を見守っていた鷹二郎だったが、石段の手摺に掴まる、ほそりとした影に目を留め、曇天を背に立つ、その少女を仰ぎ見た。
 艶とながるる、ぬばたまの黒髪。
 肌は雪のように白く、今にも消え入りそうな、淡雪のような娘であった。
 こちらを見ているようで、その硝子玉のような瞳は、よく像を結んでいないのはないかと思われる。
 ただ一人、手摺に掴まりながら、その少女の顔つきに悲壮感は感じられない。
 静かな面には、触れることを躊躇うような、犯しがたい清らかさがあった。
 唇がひらく。
 少女の口から、まろみと、あたたかさを宿した声がこぼれた。
「平太」
「ーーゆき姉」
 漸く、シスターから離れた平太が、石段の上に立つ少女を見上げる。
 鷹二郎の目に、雪女の如く映った少女は、安堵に口元を緩め、吐息にもにた微笑をこぼした。

-Powered by HTML DWARF-