桜花あやかし語り

二章【涙鬼】 [5]

 部屋の中、硝子窓が白く曇り、暖炉が赤々と爆ぜていた。
 ーーゆきという少女は、鷹二郎の目から見て、少し不思議な御仁だった。
「ゆき、と申します。平太を助けてくださって、有り難うございました」
 しとやかに頭を垂れ、鷹二郎と挨拶を交わすと、それっきり、平太の世話に専念していた。
 口数少なく、柔らかな物腰、ふわり浮世離れしているかと思えば、怪我をした平太の世話を焼く姿は、実の姉弟のようだ。
 最も、身寄りのない子供ばかりが暮らす、この灯火の家では、よくある光景なのかもしれない。とはいえ、苛めっ子に打たれながらも、決して屈っさず、あのぎらぎらした野犬のような目をしていた少年が、ゆきという少女の前では、さながら借りてきた猫のように大人しい。
 手当ての際、いてて、と呻いた平太を、ゆきが我慢なさいな、と優しくたしなめる。
 見えている風ではないのに、その手つきは慣れたようで、器用なものだった。
 聞けば、完全なる盲ではなく、光の筋やおぼろげな形はわかるらしい。
 平太を送り届けてくれたことに感謝し、暖炉の前で、あたたかい茶を振る舞ってくれようとする尼僧に、
「勤務中ですから」
と断り、鷹二郎は灯火の家を出ようとする。
「助けていただいて、有り難うございました。お巡りさんが、そばを通りがかってくださらなかったら、どうなっていたことか……」
 あの子、平太は近所の子供たちと喧嘩をしては、生傷ばかりつくってくるのですよ、と、孫のやんちゃに手を焼く祖母のような顔をして、シスターは片手で瞼を押さえた。
 本当は優しい子なのに、無茶ばかりするのです。
 自責の念にかられているらしい優しい老女に、鷹二郎は幼い頃から面倒をみてもらった、婆やのタキの面影を重ねる。
 生真面目で、道を外れることなどない長兄の修一郎はともかく、近所の悪タレどもと喧嘩をしては、たんまりを生傷をこさえてくる次男坊や、お転婆でひところに留まらない末妹の佐保には、ずいぶんと頭を痛めたらしい。
 今となっては、あのしわがれた声を、ひっつめた白髪を、かさかさの大きな掌を、懐かしく思う。
 ……佐保が居なくなってしまった後の、タキの悲嘆に暮れた様子を思うと、胸が疼いた。
 やや懐旧の情にかられながら、故に、するりとなぐさめの言葉が出る。
「男児たるもの、多少の生傷は成長の糧ですよ。最も、身近なご婦人方に心配をかけるのは、いただけませんが、ね……ご心配なされずとも、男子とはそういうものですから、大丈夫ですよ。シスター」
 いずれ、そう幼い真似はしなくなります、婆やに叱られた自らの体験を含め、保証した青年警官の笑顔は、尼僧の沈んだ心を、少なからずなぐさめたようだった。
 そうなるといいのですが、とやや浮上した声で言い、再度、眉をかげらせると、憂い声で続ける。
「最近、近所の子たちと、喧嘩が絶えないのです……。というのも、平太が天狗の正体は、人間じゃない、などと奇妙なことを言うものですから……すっかり、ホラ吹き呼ばわりされて」
 老いた尼僧は、ちらりとゆきの手当てを受ける平太に視線を向けると、また深々とため息をつく。
 少年の言葉を疑っているというよりは、近所の子供たちから、嘘つき呼ばわりされる平太のことを、心から案じているような口調だった。
 親代わりとも言えるシスターの言葉に、平太は弾かれたように面を上げると、必死に言い募った。
「嘘なんかじゃない……っ!本当に見たんだ!」
「平太……」
 シスターは困ったような目で、顔を赤くした平太を見やる。
 彼女とて、神に奉仕する者として、愛する子を疑いたいわけではない。けれども、神出鬼没の義賊、誰も素顔を見たことのない黒天狗の正体が、あろうことか人間でないなどという与太話を、本気で信じるのは難しかった。
 そうでなくとも、年端もいかぬ男の子の言うことである。
 そんな大人の心理を、少年はよく承知しているのだろう。
 悔しげに拳を握りしめると、本当に見たんだ、と絞り出すような声音で言った。
「この前の寒かった夜、教会の屋根の上に、真っ暗な影が立っていた。あれは、きっと黒天狗だよ」
 目をつぶり、平太はその時のことを思い出す。綺麗な満月の夜だった。
 月の光で、金色の十字架がきらきらと目映くきらめいて、ほんとうに夢みたいに綺麗だった。
 星が流れ、言葉にもならない程。
 そんな教会の屋根で、真っ黒な影が何度も跳ねて、まるで軽やかに踊っているみたいだった。
 平太は部屋の窓越しに、呆然と、その黒い影を見つめていた。
 深夜、相部屋の子供たちは皆、寝静まっており、かすかな寝息が聞こえる。
 ーー黒天狗だ。
 満月の下、踊る影。
 これを見ているのは、自分ひとりだと悟って、少年は息をのんだ。
 その時、大きな黒い影が、此方を振り返った。顔は、暗がりでよく見えない。けれども、その頭には、二本、鋭い角が生えていた。
 ーー鬼。
 見間違いじゃない。
 確かに、人間にはあり得ぬ、角が生えていた。
 相手は、平太の存在に気づいただろうか。
 わからない。しかれど、月光を背負った影は、黒天狗は高く高く高く天にその身を踊らせると、闇の彼方にかき消えた。
 その後、平太がいくら目を凝らしても、その姿を見つけることは、出来なかった。
「あれは、黒天狗だよ。絶対に……ただの人間が、角があったり、あんな風に動けたりするもんかっ!」
 信じてないと思ってか、少年は鷹二郎に詰め寄ると、噛みつかんばかりの形相で叫んだ。
 興奮気味のそれに、姉代わりのゆきが、そっと袖をひいて、「平太」と穏やかにたしなめる。
 紛れもなく、己が目にした真実であるのに、誰も信じてくれない状況で、孤軍奮闘してきたのだろう。
 平太は、くしゃり、と無念そうに顔を歪めた。
 ゆき姉、と姉代わりである少女の名を呼ぶ。
「ゆき姉は、ゆき姉だけは、信じてくれるでしょう……?黒天狗は弱い者の味方で、優しいんだ。毎日、毎日、窓辺に花を届けてくれているのも、きっと、あの人だよ」
「……さぁ、どうかしら」
 弟のように、可愛がっている平太の言葉に、ゆきは是とも否とも答えず、そのボサボサの頭に手を置くと、いとおしむように撫でる。
 あたたかな暖炉の炎に照らされた、少年と少女の姿に目を細め、鷹次郎はそちらに歩み寄った。
 気配を察して、平太はゆきを庇うように前に立ち塞がり、黒髪の娘は小さく首を傾ける。
「その話、信じるよ。確かに、黒天狗のあの身のこなしは、人間とは思えぬものな。ヒトならぬものの仕業ならば、納得がいく」
 警官の青年が、そう言い切ることが出来たのは、喋る猫又を始め、小料理屋『こうめ』の面々との出会いが大きかった。
 狐に狸、のっぺらぼう、あれだけのものを見てしまえば、世の中の大概の不思議は飲み込める。といっても、そんな鷹二郎の事情を露とも知らぬ平太は、胡乱げな目をして、ふぃ、とそっぽを向いた。
「あらまあ、平太ったら……せっかく、お巡りさんがおっしゃってくださっているのに……」
 たしなめるように、ゆきに諭された少年は、ぎゅ、と姉代わりの少女の袖を握りしめると、ひどく口惜しそうに言った。
「みんなには、黒天狗の姿が見えないんだ。ゆき姉が……目の手術をしたら、きっと」
 そう呟いた平太に、鷹二郎はゆきへと視線を移す。淡雪のように儚げな風情の少女に、「手術を、為さるのですか?」と尋ねた。
「ええ」
 不安と期待の混じったような顔つきで、着物の合わせに掌を押しつけると、ゆきは首を縦に振る。
「シスターが……なんでも名も名乗らず、灯火の家に寄付してくださった、ご立派なお人がいらっしゃるのだそうです……お医者様曰く、成功する確率は、半分位らしいのですけど」
 失敗する危惧がないわけでは、無論、なかろう。
 それでも、シスターや平太、灯火の家で共に暮らす゛家族゛の想いを感じてか、少女は未来を信じて、気丈に微笑む。
 その健やかな心根に、清浄なものを感じながら、鷹二郎は「そうなのですか」と制帽を脱いだ。
「お手間を取らせましたが、本官はこれにて。手術が成功するよう、本官も願っております」
 黒天狗のことは気になるが、平太という少年は、もう心配なかろうし、あまり長居をしても、尼僧やゆきに悪かろう。
「有り難うございます……もしも、目の手術が成功したら、あの方にきちんとお礼を伝えたいのです」
 あの方?首をかしげた警官に、ゆきはほのかに頬を赤らめると、「はい」とはにかみながら答える。
「毎日、窓に一輪、花を届けてくださる方がいるのです。お会いしたことも、お話させていただいたこともないのですけれど……、私にはわかります。きっと、すごく優しい方ですわ」
 だって、花を減らさないようにたった一輪だけですもの、花を贈るその人のことを想ってか、嬉しげなゆきの声が、鷹二郎の耳に残った。


 照れ臭そうにそっぽを向いた平太や、ぺこりと一礼したゆき、恐縮したように、頭を何度も下げた老齢のシスターたちと別れて、鷹二郎は踵を返した。
 腰のサーベルが、震えるようにりん……と鳴く。
 ーー神出鬼没の義賊・黒天狗。
 灯火の家。
 目の不自由な少女、ゆき。
 黒天狗を人とならざる者だと、言い張る平太。
 一体、いかようなる繋がりがあるものか。

 一度、署に戻った彼だったが、仁木にひやかされつつ、勤務を終えると、再び、灯火の家へと赴いた。 とはいえ、青年の目的は、平太やシスターと話すことではない。
 日はとうに暮れ、夜の帳に包まれた通りで、ほろ酔い加減の酔っぱらい肩を触れ合わせる。
 おおっと……とよろめきかけた身体を、片手で引いてやった。
 呑み屋の赤い提灯と、昨今、ようやく増えてきたばかりの電灯。
 ふらふら夜道を歩く着物姿の酔っぱらいと肩を組むのは、洋装を着こなした紳士だ。
 ふくふくと恰幅のよい腹回り、酒で赤らんだ顔、人の良さそうなそれは、タヌキの゛社長゛と何処か似ているようで、思わず、引き締まった頬が緩む。
 煉瓦造りの教会、十字架、それと並ぶ灯火の家が見えたところで、鷹二郎は足を止めると、民家の軒先に身を寄せた。
 暗い夜空に、銀の星が瞬く。
 吐き出された息は、白く煙のようだ。
 果たして、どのくらいの時間が、経っただろうか。
 灯火の家の屋根に、影が踊った。
 月を背にし、その影は高く跳躍する。さながら、古の山に棲むという、天狗のように。
「……はああっ!」
 鷹二郎は、列泊の気合いをこめて、サーベルを抜き放つと、天翔る影を睨みつけた。
 声を聞き付けてか、影がこちらを向く。
 石榴のような赤い眼が、こちらを見下ろしていた。
 かなりの距離があるにも関わらず、警官の目には、はっきりと゛それ゛が映る。
 月明かりを背にしたその異形には、頭に二本の鋭い角があった。
 刹那の邂逅。
 サーベルを構えた鷹二郎を省みることなく、黒天狗と呼ばるる影は、月光届かぬ暗がりに身を踊らせて、それっきり振り返ることがなかった。