桜花あやかし語り
二章【涙鬼】 [6]
花一輪、紫苑、忘れな草、薔薇……。
咲いたばかりの桜の枝をひとふり、窓辺に置く。目で愛でるよりも、香りを愛する君の為には、この方が良い。
ただ君が幸福であれますようにと、それだけを願っていた。
鬼と疎まれた自分を、嫌わないでくれた優しい女、だから、誰よりも幸せになるべきだと思ったのだ。
彼は、己がどうやって産まれたのか知らない。
ほかの生き物のように、母と呼ばれるものの胎から生まれ落ちたものか、はたまた木の叉から出てきたのか、あるいは同族と呼ばれるものに棄てられたのか、謎のままだ。
気がついた時には、赤子の彼はわんわん泣きながら、桜木の根元に転がっていたのだと、のちのち、彼を拾った老爺は語った。
山の奥深く、人の立ち入らぬ土地で、孤独に暮らす、偏屈な老人だった。
ふつうの赤子と変わらんかった、と彼の養い親である老人は言う。
ただし、頭から伸びた二本の角と、血のように赤い目が、彼を人とを隔たらせていた。
老爺は、彼をトイチ、と名付けた。それが、若くして、死んだ息子の名であると教えられたのは、養父の死の間際のことだった。
老人に拾われたトイチは、すくすくと成長した。
一年ほどで並の大人と変わらぬ背丈になり、山の天辺から麓まで、自分の庭のように知り尽くしていた。熊と相撲をとってはを投げ飛ばし、馬よりも早く走り、滝の上から飛び降りても、傷ひとつ負わなかった。余りのやんちゃぶりが、養父の勘気に触れて、大きな雷を落とされたことも、一度や二度ではない。
人にはありえぬ怪力を誇り、角のあるトイチを、それでも世捨て人である老人は、実の息子のように慈しんだ。言葉を教え、文字を教え、山で生きていく術を教え込んだ。
春は桜の花を愛で、夏は滝壺に飛び込み、秋は柿や栗の実りをもいで、冬は親子のように寄り添って、暖をとりながら眠る。
そんな日々、トイチが老爺の背丈を追い越し、見上げるような巨漢になってからも変わらなかった。
老人が何故、山に篭るようになったのか、トイチは知らない。ただ一度だけ、ポツリ、と「人が怖くなったのだ」とだけ零した。
「トイチ、麓で人には会うな。会ったら、獣のように吠えて、すぐに逃げるんだぞ」
くる日もくる日も、口を酸っぱくする老爺を、トイチは不思議に思う。
トイチは熊よりも強いし、馬よりも速く走れるし、兎よりも高く跳べる。恐る理由など、何もないように思えた。
「なんで、じいちゃん。話しかけちゃ、駄目なの?」
「人間は、臆病なんだ。お前のような見た目では、話す前に鉄砲で撃たれしまうよ。ヒトは、怖いんだ」
トイチ、お前の頭には角がある、お前には人にない力がある。それは、人間に敵意をもたれて、退治されてしまうのだよ、と。
ヒトは怖いと、繰り返す老人に、トイチは首をかしげてしまう。既に大人の男よりも、遥かに立派な体躯をしていても、獣を一撃で仕留めることができても、彼はまだ生まれたての赤子のようなものだ。
恐ろしいも、憎いも、哀しいも知らず、雪原のように、まっさらなままだった。
人と鬼、と呼ばれるものの違いすら、よくわかっていなかったのだ。
トイチは、なぜ、と尋ねる。
「なんで、人は恐ろしいの。じいちゃんは、ちっとも怖くないよ」
「……トイチ」
老人は悲しげな目で、自分が育てた鬼の子をみやった。鋭い角があっても、その目が赤々と光っていても、爪が鎌のようでも、ち―――っとも怖くなかった。ただ、悪意のある人間のせいで、この子を失う方が、迫っているであろう冥土のお迎えよりも、恐ろしかった。
ワシも、と老爺はうなずく。
「お前のことは、少しも怖くないよ。トイチ。牙があっても、角があっても、鬼でも、お前はわしの可愛い息子じゃ……ただなあ、それでも、人間は恐ろしいのよ。見た目で全てを、判断する人間がな」
「じいちゃ……」
「――悪意のある人間はなぁ、優しい鬼より、ずっとずっと恐ろしい生き物じゃよ」
老人がしみじみと語ったそれは、言ったひとが儚くなってからもずっと、なぜかトイチの胸に残った。
山が吹雪に閉ざされた、さる年のことである。山麓をましろい雪が、白く染め上げている。
降り積もった雪の重みで、屋台骨がきいきいと軋む他は、ひどく静かな夜だった。
ぱちぱちと爆ぜる囲炉裏で暖を取っていたトイチは、寒さに凍え、綿の布団にくるまっていた老爺が、先ほどから、ずっと静かな事に気がつく。……もう眠っているのだろうか。
耳元で「じいちゃん」と何度、呼びかけても、軽く肩を揺すっても、養父はぴくりとも反応しなかった。
それが、すでに事切れているのだとわからぬほどに、鬼の心は幼子と同じであった。
朝が来て、陽が昇りても、昼が過ぎても、養父は目を覚まさなかった。永遠に。
その時、トイチはようやく理解した。
――これが死なのだと。
老いた山の獣がひっそりと息絶え、その亡骸を鳥がつつき、やがて土に還るように、じいちゃんにも、その時が来たのだと。
涙は出なかった。
鬼は泣き方を知らなかった。老爺と過ごした日々は、いつだって、温かくて優しかった。父母がおらぬでも、山から降りれずとも、養父はトイチを実の息子のように愛してくれた。だから、寂しいなんて感情を、覚える暇もなかったのだ。
吹雪が止むと、トイチは素手にザクザクと雪を掘り、爪が剥けるのも構わず、老爺の亡骸を桜の木の下に埋めた。
そののち、山に雪解けが訪れ、ようよう遅い春を迎えた頃、トイチは石を積み上げ、墓をつくり、山桜を供えた。
養父が居なくなってからも、トイチの暮らしは殆ど変わりがなかった。
猪や野兎を狩り、山になった木の実を拾い集め、夜は囲炉裏の傍で暖を取りながら、じっと息をひそめて、再び朝が来るのを待つ。
鬼の子に仲間はおらぬ、故に哀しいとも思わぬ。
トイチをトイチを呼ぶ者は、最早、何処にも居らぬ。故に、鬼の子は鬼になるしかなかったのだ。
会話する相手もおらぬ暇を持て余し、老爺が残した書物を読み耽るうちに、鬼は人の世界に興味を持った。
養父からは、決して、猟師と遭遇してはならぬ、人に姿を見られてはならぬ、山の麓に降りてはならぬ、と固く戒められていたものの、老爺の言いつけに従うには、トイチの暮らしは孤独がすぎた。
己の容貌が人と異なるのも、養父がなぜあれほど口すっぱかったかも忘れ果て、鬼の子はひとり、山を下った。
途中で、ひいいいいと泡を食った猟師に鉄砲を向けられた時は、疾風よりも早く走り、命からがら逃げ回ったものだ。
山をおり、川にそって歩いていると、人間が大勢いる所に出た。それが、都、というのだと、トイチは老爺の言で知っていた。
帝都では、小さいヒトも大きいのも、養父とよく似た腰の曲がった年寄りも、さまざまな格好をした人間たちが、思い思いに動いている。その光景に、トイチはしばし見惚れ、ふいに老爺が恋しくなって、その輪にまぎれこもうとした。
が、しかし、それは叶わなかった。
トイチが人の群れに近づくと、人々は鬼の子の角や、熊のような体躯に悲鳴を上げ、甲高い悲鳴を上げると、蜘蛛の子を蹴散らすように逃げ出した。彼がその背中を追いかけようとすると、赤煉瓦の建物から、次々と同じ格好をした男たちが飛び出してきて、トイチに銃や針のように尖った刀を向けてきた。警官だ、と誰かが叫んだ。
殺せ殺せ、化け物を殺せ。
狂乱のように高まった群衆の声は、礫や矢のように、鬼の子に降りかかった。
刀で散々、甚振られた挙句、野次馬からは石を投げつけられた。鬼が、化け物が。
痛い痛い痛い痛い痛い。
ずっと昔、崖から転がり落ちた時のような激痛を覚えながら、トイチは「ウオオオオオオッ」獣のような雄叫びをあげ、屋根の上に跳躍すると、その場から逃げ出した。
――じいちゃん。じいちゃんの言った通りだったよ。
ヒトは怖いよ。
この角がある限り、鬼は仲間に入れてもらえないんだ。
光る木によじのぼり、(トイチはそれを電灯というのも知らなかった)帝都劇場の横をすり抜けたトイチは、死にかけた野犬のような酷い有様で、地面に倒れこんだ。
じい……じいちゃ……血が流れているよ。
トイチもじいちゃと同じように、体が冷たくなって、土に還るのかなあ。怖いよ。じいちゃん……。
意識が遠のくのを感じながら、トイチはゆるりと瞼を伏せようとする。
投げつられた石や、無数のヒトの目、浴びせられた罵声の恐ろしさに震えては いても、立ち上がる気力は既に残されていなかった。
そのままであったなら、鬼の子は帝都の片隅で、誰に看取られることもないまま、化け物として息絶えていたかもしれない。されど、その時、新雪のような白い手が、トイチへと伸ばされた。
「……お具合が、悪いのですか?」
柔らかで、包み込むような穏やかな声であった。
敵意など微塵も感じられぬそれに、されど、トイチは怯え、動かぬ重い身体を引きずり、後ずさった。
恐ろしい、角があるぞ!化け物め、殺してしまえ!先程の棒で殴られながら、浴びせられた罵声、怒声が、未だ耳の奥で木霊していた。
止めて、止めてくれ!どうしてこんなことをするんだ。じいちゃんは、あんなに優しかったのに、自分はただ、人と話したり、笑ったりしたかったんだ。ただ、それだけだったのに ……。何で。
「ごめんなさい。驚かせてしまったようですね」
また石をぶつけられるのだろうか、あるいは、鬼よ、化け物よと謗られるのだろうなと身構えていたトイチは、続けられたそれに、息を呑んだ。
労るようなそれは、彼を鬼ではなく、人と同じに扱っているようであったので。
土と砂にまみれた顔を上げると、トイチの人にあらざる真紅の目に映ったのは、小柄な人間の女だった。
髪は黒く、肌は山の天辺に降り積もった雪のように白く、目は曇り空のようで、上手く光を捉えていないようだった。
そこで、漸くトイチは女が己を畏れぬ理由を悟った。と、同時にすーっと心の何処かが、冷えていく。
やさしく、労るように接してくれた娘の眼には、鬼の頭から突き出した角も、人にあらざる石榴のように真っ赤な目も、その異形なす姿がわからぬからだ。なればこそ、人と同じように、親身に接してくれる。
そのことに気付いた時、トイチは頭を抱え、醜い己の姿を、お天道さまから隠したくなった。
「辛いのですか?」
黙り込んだ鬼の子に、女はかがみこんで、再度、問いかけた。
地面に伏せたトイチは両の手のひらで顔を覆い、強くかぶりを振った。
「近寄らないでください」
「え……?」
「私は、とても醜いなりをしているのです。だから、どうか触れないで」
そう固い声で言うと、トイチの拒絶に、女は微かに怯んだようだった。
このまま立ち去ってくれればいいと、彼は願う。
女の声はやわらかく、その掌はあたたかだった。それは、養父を亡くしてから、トイチに向けられたことがないものだった。だからこそ、それが恐怖と嫌悪に染まる瞬間を、見たくなったのだ。
女は彼に触れようとした手を下げたものの、トイチの傍から離れようとしなかった。
わたくには。
女は束の間、睫毛を震わせ、ゆっくりと喋る。
「私には、醜いとおっしゃるあなたの姿が、よく見えません。殿方か女人か、お若いかお年寄りかも、お声でしか判断できぬのです」
「……」
「でも、あなたのお声を聞いていると、何故だか安心するような気がします。きっと、根がやさしい、善い方なのでしょうね」
憐れむでもなく、花がほころぶように微笑う娘に、トイチは何も言うことが出来なかった。
「これを……差し上げます。寒いのか、震えていらっしゃるから」
今日は、花冷えですね。女は小さく笑うと、するりと脱いだ羽織りを、そっと、トイチの肩にかける。呆然と羽織を被せられた彼に、娘は胸の前で手を組み、 穏やかな声で言った。
「あなたに、神様の祝福がありますように」
その着物の袷には、金色の十字架が揺れていた。
去りいこうとする娘の背中に、トイチはかのなくようなかすれがちな声で、「待って……!」と呼び掛けた。
「っ。ありがとう。あの、君の名前は?」
下駄の音が、遠ざかる。
伸ばされた手が見えなくとも、緑の黒髪 を揺らして、娘は振り向いた。
曇り硝子のような焦点の合わぬそれが、鬼の子の、未だ育ちきらぬ心を震わす。
「ゆき、と申します。あなたは?」
その名の通り、山麓に降る、穢れない新雪を思わせる娘の問いに、鬼の子は養父に与えられた名を名乗った。
「……トイチ」
その娘、ゆきは唇を動かすような素振りをみせ、トイチの名を反復すると、ぺこりと会釈して、しずしずと歩き去っていた。
やや覚束ない足取りで、ゆきが歩みゆく先には、壁面に緑の蔦がからまる、赤煉瓦の建物が見える。その天辺には、金の十字架が淡く輝いていて、トイチは赤い眼孔をすがめた。
灯火の家。
後に、彼が足繁く通い詰め、窓辺に一輪の花を置き届けることとなる場所の名を、トイチはいまだ知らなかった。
肩に掛けられたら羽織からは、ゆきの暖かなぬくもりと、懐かしい山桜のような、あまい香りが薫る。
ゆき。ゆき。ゆき。
トイチは覚えたばかりの名を、深く記憶に刻もうとするように、舌の先で転がした。養父以外のヒトと、あんな風に会話を交わしたのは、初めてだった。
身体は傷だらけであったけれど、胸の奥に、じわりと明かりが灯ったようだった。
それから、トイチは住処である山と、帝都を往復しながら、多いときは二日と開けず、少ないときでも週に一度は、灯火の家に足を運んだ。
己の姿が、醜く、恐ろしい異形の鬼であることは自覚していたので、神父や尼僧、孤児たちに見咎めれないよう、ひっそりと。
灯火の家を訪れて、誰かと顔を合わすことも、言葉を交わすこともない。ただ、窓辺に一輪の花を届け、そっと立ち去るだけだ。
山桜、たんぽぽ、椿……。
贈る花は、四季折々異なったが、なるだけ、良い匂いを楽しめるものを選んだつもりだ。
ゆき、と名乗った彼女は、灯火の家の中では年長者であるらしく、自身、目が不自由であるにも関わらず、幼い孤児たちの世話を任され、甲斐甲斐しく働いていた。
特に、近所の悪タレどもと喧嘩をしては、擦り傷をたんまりこさえてくる平太という少年とは、姉弟のように仲がよく、 喧嘩する度に、めっ、と叱られながらも、平太はゆきのことを姉のように慕い、また何かと不自由な彼女のことを、進んで手伝っていた。
トイチが届けた花は、孤児の誰かが気付いて、持ち去られてしまうことも多かったが、運が良ければ、朝、顔を出したゆきに見つけてもらえた。
花の香りに、薄紅の唇が綻ぶ。
偶然、それを見られた時、トイチはそれこそ、天にも昇るような心地を味わうのだった。
ゆきはヒトで、トイチは醜い、異形の鬼だった。どれほど焦がれても、それ以上、近づくことなんて出来はしない。
それでも、良かったのだ。たとえ言葉を交わせなくても、ゆきが幸せで、笑っていてくれるなら、トイチは満足だった。
でも。
ある時、鬼の子は気付いてしまったのだ。
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