桜花あやかし語り

二章【涙鬼】 [7]

 人の世を、人ならざる者の目で見、また灯火の家の童たちを見守るうちに、トイチは、嫌でも気付いてしまったのだ。
 ヒトの世は、決して、平等ではないのだという現実に。
 強者が弱者を虐げ、 財ある者が貧しい者からなけなしの金をむしり取り、金貸しは金を返せぬ輩を、嬲りものにしていた。
 帝都の中心を、帝の西欧趣味に寄り、異国との貿易で一山あげた成金が、我が物顔で闊歩している。 そうかと思えば、落ちぶれた武士の末裔が、道端で哀っぽく声を枯らせ、物乞いをしていた。
 ーー山の奥でも、強い獣は弱い獣を狩り、己の血と肉と為す。
 所詮、この世は弱肉強食と、老爺に育てられた鬼の子とてわかってはいたが、それでも、人の世のそれはより残酷なように、トイチの目に映る。獣は、生きる為に狩りをする。そこには、見栄も虚勢もない。ならば、人は。人は……。
 何より、トイチの心を痛ませたのは、灯火の家を蔑み、虐げる者たちの存在であった。
 この桜花にあっては、伴天連に対する偏見はいまだ根強く、異教、邪教の類と蔑まれていた。神に祈るより、悪魔をあがめまつっていると、まことしやかに囁かれる程に。
 教会や灯火の家の前の窓には、戯れに石が投げつけられ、硝子を割られることさえあった。
 神父や尼僧は言うに及ばず、その魔の手は、灯火の家で暮らす、孤児たちにも伸ばされる。
 二親を亡くし、様々な傷を抱えていきる、いとけない彼らに、世間の目は冷たかった。
 二親のない子といびられ、近所の童たちから、仲間外れにされる平太の小さな背中。
 そんな彼を慰めるゆきの、どんなにか悲しげだったこと!
 こんなこともあった。
 灯火の家の土地を買いに来、すげなく断られた身なりの良い紳士が、帰り際、ゆきと肩が触れ合い、目の不自由な彼女がよろめいても、手を貸そうとすらしなったのだ。
 可哀想に、着物を泥で汚し、地面に座り込んだ娘は、杖となるものを求めて、光を求めて、手をさまよわせた。
 そんな娘の手を乱暴に蹴りつけ成金上がり風の男は、冷淡に吐き捨てた。
「穢らわしい、貧乏人の異教徒が」
 ゆきは小さく息を呑んだものの、胸に下げた十字架をすがるように握りしめて、 何も言わなかった。
 人の世は、やさしくはない。
 金が、権力が、身分がなければ、同じ人間扱いすらしてもらえないのだ。
 それを骨の髄まで解した時、トイチは自ら、鬼になろうと決めた。
 ヒトではない生き物ではなく、ゆきや灯火の家の子供たちを守るために、本物の鬼に。
 じいちゃん、ごめん……
 養父は、哀しむであろうと思った。人ならざるトイチを、息子のように愛おしんでくれた、養父は。
 そうして、トイチは黒天狗となったのだ。
 義賊を騙り、不当な高利貸しや、真っ当でない手段で儲ける輩の屋敷から、金目の物を盗んでは、貧しい人々へとバラまいた。
 そうとわからぬよう、夜明け前に教会へ届けたことさえあった。
 善良な灯火の住人たちが、ゆきが、真実、それを喜ばぬことを知ってはいたけど。
 知っていた。
 義賊の皮を被り、貧しい人々を救い、灯火の家を守るなど 、詭弁であり、トイチは唯の薄汚い盗人に過ぎぬのだと。
 多分、本当は鬼の子はヒトになりたかった。ヒトに、愛されたかった。
 きっと、ただ、それだけのことだった。
 黒天狗として、金貸しやらの屋敷に盗みいるようになって以来、警察官に追われるようになった。
 さながら、漆黒の羽が生えたように、屋根から屋根へと軽々と飛び移り、闇夜を疾駆するトイチを、サーベルを差した巡査たちが追ってくる。
 眩い洋灯の光に紛れて、捕り物のために掲げられた、提灯のやわらかな光がゆらゆらと揺れていた。
 いかに庶民から義賊と持て囃されようとも、していることは唯の盗人に過ぎぬ。仕方ないことではあっただろう。
 そういえば、一度、ヘマをして、灯火の家の子供に、正体を見られてしまったこともある。
 平太というやんちゃ坊主は確か、喧嘩ばかりですり傷をこさえては、ゆきにかいがいしく介抱されていた。
 黒天狗として、警官たちに追われ、捕り物の対象となっても、トイチが捕まることはなかった。
 鬼である彼は、野山の獣に劣らぬ脚力と、その腕には、熊にも負けぬ怪力が宿っていたから。ヒトにあらざる異能が、ヒトに恐れられるそれが皮肉にも、鬼の子が身を守る力になった。
 ――それでも、ただ一度、忘れえぬ邂逅がある。
 闇を従え、地を駆ける、異形のトイチに怯えることなく、サーベルを構えた若い警官。
 精悍な面の、鷹のように鋭い目をした若人であった。
 研ぎ澄まされた、その。
 その男は刹那、トイチを見て不敵に笑う。そう、笑ったのだ。
 その笑みを見た瞬間、力で上回るはずのトイチは逃げた。逃げ出した。
 鬼の子は、ずっとヒトが怖かった。人に焦がれ、決して、人にはなれず、それでも、人になりたくてたまらなかった。
 ーーじいちゃんのように、ゆきのように、脆弱で、いとしい人になりたくてたまらなかったよ。



「そっと、そう、まぶしいですよ……」
 医者に促されながら、ゆきは瞼をおおっていた白い包帯を、するするとほどき、膝元に落とした。
 途端に、病室の窓越しに、強い太陽の輝きが目に飛び込んでくる。
 まぶしい、とゆきは目をすがめた。
 生まれてから、彼女の視界から、晴れることのなかった霧。 磨り硝子の外れた世界は、清冽な光に満ちていて、美しく、落ち着かぬほどだった。
「痛みは?」
 気遣わしげに尋ねてくる医者に、ゆきは首を横に振る。
「いいえ、先生……ありがとうございます。少し眩しいですけれど、痛みはないです」
「それは、良かった。焦ることはない、ゆっくりと慣れていきましょう」
 老齢の医師は、手術によって得た光に、喜び以上に、いまだ戸惑いを隠せないゆきを励ました。
「はい……、先生」
 ゆきは、素直に頷く。
 それを見た老医師は穏やかに笑い、告げた。
「もう少しすれば、面会の許可もおります。平太、でしたかな……?ここ何日も、心配そうにそわそわしながら、通ってきていますよ」
「平太が……」
 ほんの十日ばかり会わなかっただけなのに、言いようのない懐かしさにかられて、ゆきは息を吐いた。
 瞼の裏に、庭からこっそり病室を覗いて、心配そうにしている平太の姿がありありと思い浮かぶ。
 一刻も早く、平太や灯火の家の尼僧に、会いたげな彼女に、医師はやんわりと忠告した。
「あまり、無茶はしてはいけませんよ。手術は成功したとはいえ、油断は禁物ですからな」
「はい。先生の仰る通りにいたします」
「よろしい。その調子でいれば、遠からず、退院できることでしょう」
 従順な患者に満足したのか、医師は看護婦を引き連れて、去っていった。
 病室には、一人、ゆきだけが残される。
 春遠く、だが、花の萌芽を思わせる萌黄の着物をまとうたゆきは、ぼんやりと窓の方を見つめている。予感があった。
 もしかしたら、あの人に会えるのではないかと。
 いつも窓辺に花を届けてくれた、彼の人。
 梅や桜、目の不自由なゆきの為に、香りで楽しませようとしてくれるあの人が、愛しかった。
 言葉を交わしたことも、勿論、触れ合うことも なかったけれど、何かが繋がっているような気がしていた。
 それは、とても儚くて、けども得難い絆なのだ。
 灯火の家に寄付をし、ゆきに手術を受けさせてくれたのも、あの人なのかもしれなかった。
 もし、手術が成功したら、会いに来てくれるかもしれない。
 そんな淡い期待を胸に抱いて、ゆきは降り積もった雪に、朝の光が反射する様を眺めていた。
 と、その時、病室の扉が遠慮がちに叩かれた。
「……はい?」
 ゆきがおっとりと返事をすると、静かに扉が開けられる。
 花の香りがした。
 早咲きの梅や山桜、 山に咲く野草、両手一杯の花が、床に散らばる。花も咲かぬ冬の山で、必死に探してきたのだろう。
 その手は、雪に凍えたように、真っ赤だった。
 窓辺に花を置いてくれたのは、この人なのだと、何も言われずともわかる。
「……あの時は、ありがとう」
 羽織を差し出したのは、ゴツゴツとした岩肌のような手だった。
 ゆきは面を上げ、いつもいつも、かぐわしい花を届けてくれたトイチを見つめる。
 その頭には、人にあらざる角があり、柘榴の眼は、不気味に輝いていた。
 醜い。
 反射的な嫌悪感に、ゆきは呻いた。
「ひっ……」
「ゆき……?」
「あ、いやっ、化け物……!」
 ゆきの目にありありと浮かぶ、恐怖に気付いたのだろう。
 鬼は眉を下げ、悲しそうな顔をした。
「ゆき……」
「ひぃぃぃ……来ないで」
 娘は恐怖で顔をひきつらせ、その名の通り、ゆきのように白い面をさらに白くしていた。
 恐ろしい姿をした鬼は、ゆきに伸ばそうとした手をおろすと、哀しげに笑う。
「ゆきのことが、好きだったんだ」
 叶うなら、同じ人に生まれてきたかった。
 鬼の瞼を濡らした一滴が、床に落ちた。
 声もなく嗚咽すると、トイチはゆきに背を向け、病室を走り去り、そうして、二度と彼女の元には戻っては来なかった。
「え……?」
 何かとてつもない過ちを犯してしまった気がして、ゆきはただ、呆然と立ち尽くす。
 扉の前で、革靴の音がする。
 足音が止まると同時に、半開きの扉から、「失礼」と警官の青年が顔をのぞかせた。鷹二郎だ。
 彼はゆきの姿を認めると、精悍な面を崩し、「どうかしたのですか?」と、落ち着いた声音でとう。
 あ、う、とゆきは言いよどんだ。
「わからないのです。でも……」
「でも?」
「わたし、なんだかとても間違えたのではないかしら……?あの人のこと、傷つけた。ずっと、花を贈ってくれたのに」
 ゆきは悲壮な声で言い、両の掌で顔を覆った。
「貴女のせいでは、ありませんよ。ゆきさん」
 鷹二郎の慰めに、ゆきは頷かず、違うの、と肩を震わせ続けた。

 お前は鬼じゃないよ、トイチ。
 人より優しい鬼なんて、いるものか。なあ。


 曇天の空に、はらりはらりと粉雪が舞う。
 鬼の涙の代わりのように、降り止まぬ雪は、帝都を白く染め上げていったのだった。

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